やぎゅう むねのり
| 地域 | 近畿(大和・柳生)、関東(江戸) |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 徳川氏(将軍家剣術指南役・大目付) |
| 大名家 | 柳生家(柳生藩) |
| 家紋 | 二蓋笠(柳生笠) |
| 主武器 | 刀 |
| 衣装・甲冑 | 肩衣・袴 |
| 武将タイプ | 剣と政治の達人 |
柳生宗矩(やぎゅう むねのり)は、柳生宗厳(石舟斎)の子で、徳川将軍家の剣術指南役をつとめた剣豪である。元亀2年(1571年)に生まれ、正保3年(1646年)に76歳で亡くなった。剣術だけでなく政治の才もあり、大目付となって大名を監視し、のちに1万石あまりの大名となった。
3行でわかる柳生宗矩
- 父の推薦で徳川家康に仕え、秀忠・家光の剣術指南役となった
- 大坂の陣では秀忠の身を守ったと伝わり、のちに大目付として大名を監視した
- 剣と心のあり方を説いた『兵法家伝書』を著し、柳生藩の大名となった
目次
家康に仕える
文禄3年(1594年)、父の宗厳が徳川家康に「無刀取り」を見せたさい、宗矩も同席していた。宗厳は高齢のため家康の誘いを辞退し、かわりに宗矩を推薦した。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、家康の命を受けて大和の豪族たちを東軍に引き入れる働きをした。この功で、父が失った柳生の領地を取り戻した。
将軍家の剣術指南役
宗矩は二代将軍・秀忠、三代将軍・家光の剣術指南役となった。大坂夏の陣では、秀忠の本陣に攻めこんできた敵を宗矩が斬り伏せて秀忠を守ったという話が伝わる。
とくに家光からの信頼があつく、寛永9年(1632年)には大名を監視する大目付(総目付)に任命された。剣術の家が幕府の政治の中枢に入ったのである。
大名となる
寛永13年(1636年)、宗矩は加増されて1万石の大名となり、柳生藩が生まれた。のちに1万2千500石となっている。
宗矩は、剣の技だけでなく心のあり方を重んじる考えを『兵法家伝書』にまとめた。禅僧の沢庵と親しく、「剣禅一如」の考え方に影響を受けたといわれる。正保3年(1646年)に江戸で亡くなった。子の柳生十兵衛三厳も剣豪として知られる。
柳生宗矩をめぐる人物
- 父:柳生宗厳(石舟斎)
- 子:柳生十兵衛三厳/柳生宗冬
- 剣を教えた将軍:徳川秀忠/徳川家光
- 親しかった禅僧:沢庵宗彭
ゆかりの地
- 芳徳寺(奈良市柳生町):宗矩が父のために建てた寺。柳生一族の墓所
- 柳生陣屋跡(奈良市柳生町):柳生藩の陣屋の跡
- 広徳寺(東京都練馬区):宗矩の墓所


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上泉信綱







































