武田元光 | 後瀬山城を築き細川高国を支えた若狭守護

たけだ もとみつ

地域近畿・北陸
所属勢力・属性若狭武田氏
大名家若狭武田氏
家紋―
主武器太刀・采配
衣装・甲冑豪華具足
武将タイプ名門・守護

武田元光は若狭国の守護で、若狭武田氏の5代当主。小浜に後瀬山城を築いて本拠とした。管領細川高国を支えて京都へ出兵したが、1527年の桂川原の戦いで敗れた。度重なる出兵で領国は疲弊し、若狭の支配は不安定になった。

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若狭守護を継ぎ後瀬山城を築く

武田元光は明応3年(1494年)、若狭守護・武田元信の次男として生まれた。永正16年(1519年)、父の出家にともない家督を継ぎ、若狭守護となった。若狭武田氏は、甲斐武田氏の流れをくむ安芸武田氏の一族である。永享12年(1440年)に武田信栄が若狭守護となって以来、若狭を治めてきた。

父の没後、領国支配を固めるため若狭に下った。小浜の後瀬山(のちせやま)に山城を築き、本拠とした。築城は大永元年(1521年)末から翌年にかけてとされる。後瀬山城は以後、若狭武田氏の本城となった。

細川高国を支えて京都へ

当時の畿内では、管領の地位をめぐり細川高国と細川晴元が争っていた。元光は高国の要請に応じ、兵を率いて上洛した。

大永7年(1527年)2月、両軍は京都の桂川原で戦った。元光の軍は三好勝長・柳本賢治ら晴元方の攻撃を受けて崩れ、敗れた。この敗戦で高国は京都を追われ、元光も若狭へ退いた。高国はその後も勢力回復を図ったが、享禄4年(1531年)に摂津で敗れて自害した。

揺らぐ若狭の支配

度重なる他国への出兵は、本国を疲弊させた。若狭では従弟の武田信孝や、被官(家臣)の粟屋元隆・逸見氏が反乱を起こし、支配は安定しなかった。

一方で元光は、和歌・連歌・蹴鞠を好んだ。三条西実隆ら京都の文化人とも交流した。

隠居と発心寺

天文8年(1539年)ごろ病を得て、家督を子の信豊に譲った。後瀬山の麓に隠居し、その屋敷が後に発心寺となった。天文20年(1551年)に没した。法名は発心寺殿天源宗勝。

発心寺には元光の墓塔(宝篋印塔)が残る。没後まもなく建てられたと推定され、若狭武田氏歴代当主の墓塔のうち、埋葬施設として現存するのはこの1基のみとされる。

ゆかりの地

  • 後瀬山城跡(小浜市):元光が築いた若狭武田氏の本城
  • 発心寺(小浜市):元光の隠居屋敷を起源とする寺。元光の墓塔(宝篋印塔)が残る

参考にした資料

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