聚楽第の落書事件とは|秀吉はなぜ番人の鼻と耳をそぎ、100人以上を処刑したのか ― 茶々の懐妊と「天下人の暴走」【豊臣兄弟!第45回】

夜明け前の聚楽第の門のそばの白壁に書かれた落書きを見つけ、松明をかかげて騒ぐ番衆たちを描いた日本画風イラスト

天正17年(1589)2月、豊臣秀吉の邸宅・聚楽第の門の壁に、秀吉を皮肉る落書きが書かれました。これに激しく怒った秀吉は、門の番人たちの鼻と耳をそいで磔にし、さらに犯人をかくまったとして大坂・天満の町人まで処刑します。命を落とした人は100人を超えたとされます。NHK出版のドラマガイドによると、大河ドラマ『豊臣兄弟!』第45回「天下人の暴走」でこの事件が描かれるとされています。この記事では、聚楽第の落書事件で何が起きたのかを日付を追って整理し、秀吉がなぜここまで怒ったのか、そして弟の秀長はこのころ何をしていたのかを考えます。

先に答え

天正17年2月25日、聚楽第の門のそばの白壁に、秀吉を批判する落書き(落首)が見つかりました。秀吉は警備の番衆17人の鼻と耳をそいで逆さ磔にし、容疑者の尾藤道休をかくまったとして大坂の本願寺(天満)にも厳しい処分を下しました。天満の町人60人が京都の六条河原で磔にされるなど、死罪となった人は合わせて100人を超えたといわれます。

落書きの文面は残っていませんが、茶々(淀殿)の懐妊を皮肉ったものだったという説があります。長く子に恵まれなかった秀吉にとって、待ち望んだ跡継ぎを笑いものにされたことが、異常なほどの怒りにつながったのかもしれません。

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目次

聚楽第の落書事件の流れ(年表)

日付(天正17年)できごと
2月25日聚楽第の門のそばの白壁に、秀吉を批判する落書きが見つかる
2月25日〜26日警備の番衆17人が鼻をそがれ、耳を切られて逆さ磔にされる
2月末容疑者の浪人・尾藤道休が大坂の本願寺(天満)に逃げこんだとされる
3月1日石田三成・増田長盛が本願寺に引き渡しを迫り、顕如は道休らを自害させて首を差し出す
3月はじめかくまった者たちの家が取りつぶされ、寺内町が焼かれる
3月道休の妻子をふくむ天満の町人63人が捕らえられ、60人が京都の六条河原で磔にされる
5月27日茶々が淀城で鶴松を生む

※日付や人数は史料や研究によって違いがあり、目安です。

聚楽第の門に書かれた「落首」

聚楽第は、秀吉が関白として政治を行うために京都に築いた豪華な邸宅です(聚楽第 ― 天下人・豊臣秀吉の栄華)。天正17年2月25日、その門のそばの番所近くの白壁に、秀吉を批判する落書きが書かれているのが見つかりました。このような、世の中や権力者を皮肉った落書きや歌を「落首」といいます。

聚楽第
秀吉が京都に築いた聚楽第(イメージ)

落書きはすぐに消されたため、何が書かれていたのかは正確にはわかっていません。のちに伝わる話では、秀吉が大仏づくりを名目に進めた刀狩や、長く子に恵まれなかった秀吉の側室・茶々(淀殿)が懐妊したことを皮肉った内容だったともいわれます。ただし、これは後世の創作の可能性もあります。事件のことは、奈良・興福寺の僧が書いた『多聞院日記』や、公家の山科言経の日記『言経卿記』に記録されています。

番人17人への残酷な処罰

秀吉の怒りは、まず門を守っていた番衆に向かいました。警備が行き届かなかったとして、番衆17人は鼻をそがれ、翌日には耳を切られたうえで、逆さ磔にされたといいます。落書きを書いた本人ではなく、見張っていた者たちが責任を負わされたのです。

落書事件ののち番衆が処罰された京の河原を遠くから望むイメージイラスト
処罰が行われた京の河原を遠くから望む(イメージ)

本願寺と天満の町人への処分

やがて、尾藤道休という浪人が疑われ、大坂の本願寺(天満)に逃げこんだとされました。秀吉は石田三成と増田長盛を本願寺に送り、引き渡しを迫ります。かつて信長と10年戦った本願寺顕如も、天下人となった秀吉には逆らえませんでした。顕如は道休と、かくまったとされる僧を自害させ、その首を差し出しました。

それでも処分は終わりません。道休の妻子をふくむ天満の町人63人が、犯人をかくまった罪で捕らえられ、そのうち60人が京都の六条河原で磔にされました。そのなかには子どもや年寄りもいたといわれます。大坂でも処罰が行われ、事件で死罪となった人は合わせて100人を超えたとされます。本願寺はこの事件のあと、石田三成・増田長盛から寺内の掟を突きつけられ、寺内の検地も受けました。

このほか、事件の黒幕として斯波義銀や細川昭元といった名門の人々も疑われて捕らえられましたが、無実とわかって許されています。

秀吉はなぜ、ここまで怒ったのか

聚楽第の大広間で落書に激怒する豊臣秀吉と平伏する家臣たちのイメージイラスト
落書に激怒する秀吉(イメージ)

落書き一つで100人以上が命を落とす。現代の感覚では、とても信じられない処罰です。秀吉がここまで怒った理由として、よく挙げられるのが茶々の懐妊です。

秀吉は50歳を過ぎても実の子に恵まれず、跡継ぎ問題に悩んでいました。そこへ茶々が懐妊し、この年の5月に鶴松が生まれます(豊臣鶴松)。もし落書きが「その子は本当に秀吉の子か」と皮肉るものだったとすれば、秀吉にとってこれほど許しがたいものはなかったでしょう。生まれてくる跡継ぎの名誉を守るために、見せしめとして徹底的に罰したとも考えられます。

また、関白となって天下をほぼ手中におさめたこの時期、秀吉は自分の権威を傷つけるものを決して許さないという姿勢を、世の中にはっきり示したかったのかもしれません。この事件は、晩年の秀吉の「暴走」の始まりとして語られることも少なくありません。

【考察】このとき秀長は何をしていたのか

ここからは筆者の考えです。事件が起きた天正17年、秀長は大和郡山を本拠に、大和・紀伊・和泉の約100万石を治めていました。落書事件に秀長がかかわったという記録は見当たりません。

秀長は、兄の秀吉に意見できるほとんど唯一の存在だったといわれます。もし秀長がこの場にいたら、無関係の町人まで罰することを止められたのではないか――そう考える人も多いでしょう。しかしこの翌年から秀長は病が重くなり、天正19年(1591)に亡くなります。秀長の死後、千利休の切腹、秀次事件と、秀吉の厳しい処断が続いていくことを考えると、聚楽第の落書事件は、秀長という「おさえ役」が少しずつ遠ざかっていく時代のはじまりだったともいえるでしょう(豊臣秀長の死と秀次事件)。

大河ドラマ『豊臣兄弟!』と落書事件

ドラマガイドによると、第45回「天下人の暴走」では聚楽第の落書事件や茶々の懐妊が描かれるとされています。天下人となった兄の変わりように、秀長がどう向き合うのかが見どころになりそうです。

まとめ

天正17年の聚楽第の落書事件では、秀吉を皮肉る落書き一つのために、番人17人が残酷な刑を受け、本願寺の天満の町人60人が磔にされるなど、100人を超える人が命を落としたとされます。その背景には、茶々の懐妊と跡継ぎへの強い思い、そして天下人としての権威を守ろうとする秀吉の姿がありました。弟・秀長がまだ健在だったこの時期に起きた事件は、晩年の秀吉の厳しさを予感させる出来事だったといえるでしょう。

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