三好長慶 | 信長に先駆け畿内を制した戦国最初の下剋上体現者

三好長慶

みよし ながよし

地域近畿・四国
所属勢力・属性三好氏
大名家三好氏
家紋三階菱
主武器太刀・采配
衣装・甲冑具足・陣羽織
武将タイプ「天下人の先駆け」・実力者
目次

阿波に生まれた最初の天下人

三好長慶は、戦国時代の前半にあって、四国の阿波から身を起こし、かつて父を無残に死に追いやった主家・細川氏を圧倒的な実力で乗り越え、時の将軍・足利義輝をも一時は京から追い落として、畿内一円に一大勢力を築き上げた、まさに稀代の実力者として今日に広く知られている武将である。その勢力が絶頂に達したころには、山城・摂津・河内・和泉・大和の五か国から、本国である阿波・讃岐に至るまでの実に広大な版図を実質的に押さえ込み、後の織田信長に十数年も先んじて中央の政権を掌握した「最初の天下人」とも、近年の研究ではしばしば高く評される稀有な人物なのである。

3行でわかる三好長慶
  • 大永2年(1522年)ごろ、阿波の三好元長の子として生まれる(生年は諸説)。父は主君・細川晴元に攻められて自害した
  • 主君の細川晴元を追い、将軍足利義輝とも争って京を押さえ、畿内の大部分を支配する「三好政権」を築いた
  • 弟の三好実休・安宅冬康・十河一存と家臣の松永久秀が支えたが、弟や嫡男を相次いで失い、永禄7年(1564年)に飯盛山城で没した

その波瀾に富んだ生涯は、旧来の権威や秩序をなお巧みに利用しながらも、あくまで自らの実力によって天下の中枢へと駆け上がっていった、戦国という時代の大きな転換を鮮やかに体現するものであり、彼の残した足跡をていねいにたどり直すことには、今なお少なからぬ意義があるといえるだろう。

阿波三好氏という一族

三好氏は、清和源氏の名高い流れを汲むと称する信濃小笠原氏の一族を名乗り、遠く鎌倉の世から南北朝の激しい動乱を経て四国の阿波の地に深く根を下ろし、阿波守護であった名門・細川氏の有力な被官として、代を重ねるごとに次第に頭角を現していった在地武士の家柄であった。室町幕府の管領を代々世襲した名門・細川京兆家に長く仕えるうち、三好氏はやがて阿波の守護代の重い地位をその手に収め、四国の精強な兵を率いて幾度も畿内の争乱に深く介入するという、主家にとってもはや欠かすことのできない軍事力へと、着実に成長を遂げていったのである。

父・三好元長の栄光と横死

長慶の父である三好元長は、主君であった細川晴元を管領の座に就けるべく獅子奮迅の働きを幾度も見せ、堺の地を堅固な拠点として一時は畿内に確固たる勢威を大いに誇った、まさに戦国初期の畿内を代表する有能きわまりない武将の一人として、その勇名を広く知られた存在であった。しかし、その突出しすぎた力をかえって深く恐れた主君の晴元は、一向一揆の門徒衆を巧みに扇動して元長に牙を剥き、追い詰められた元長は天文元年にあたる1532年、堺の顕本寺へと逃れて非業の自刃を遂げ、幼い長慶はわずか十歳ほどの若さで最愛の父を失うこととなったのである。

父を無残に死に追いやった張本人である主君・細川晴元への割り切れぬ深い思いは、まだ幼い長慶の胸の奥深くに消えることなく重く刻み込まれ、後年に彼が主家へと公然と反旗を翻していく大きな遠因となったのだと、これまでしばしば人々のあいだで語り伝えられてきたのである。

家督を継いだ若き長慶

父の思いがけぬ横死という過酷きわまりない逆境のなかで家督を継いだ長慶は、まだ幼少の身でありながら、敵対する一向一揆との和睦を巧みにまとめ上げ、あるいは父の仇であるはずの主家の細川晴元のもとへあえて出仕するなど、早くから並外れた政治的力量の片鱗を存分に示してみせた。本国である遠い阿波と、京にほど近い畿内の摂津という二つの重要な基盤を巧みに使い分けながら、長慶は父の遺した数多くの家臣団をふたたび固く束ね直し、なおも幼さの色濃く残る身でありながらも、長い時をかけて着実に自らの確かな実力を、少しずつ蓄えていったのである。

主家・細川晴元との確執

やがて成長を遂げた長慶は、いったんは父の仇である細川晴元にひとまず臣従する形をとりつつも、晴元の側近として権勢を大いに振るった三好政長との対立を年ごとに深めていき、主家の内部に生じた深刻な亀裂を、自らが大きく飛躍するための好機として鋭く冷静に見据えていった。細川晴元の政権は、家臣同士の激しい反目と将軍家のさまざまな思惑とがきわめて複雑に絡み合って絶えず不安定に揺れ動いており、長慶はこうした畿内の張り詰めた緊張を巧みに読み解きながら、みずからの機がじゅうぶんに熟すのを冷徹に待ち続けていたのである。

こうして父の代から長きにわたり続いてきた三好氏と主家・細川氏との宿命的ともいうべき確執は、もはや話し合いによる穏便な収拾の余地をすっかり失い、いよいよ武力による最終的な決着へと向かって、もはや避けようもなく突き進んでいくこととなったのである。

江口の戦いと父の仇の打倒

天文十八年にあたる1549年、長慶はついに主君であった細川晴元に対して公然と反旗を翻し、摂津の江口の地において、長年にわたる宿敵であった三好政長の軍勢を激戦の末に打ち破り、ついにその政長を討ち取るという決定的きわまりない勝利を、その手に確かに収めることに成功した。この江口の戦いに手ひどい大敗を喫した細川晴元は、将軍である足利義晴や義輝の父子を伴って京から近江へとあわただしく落ち延び、ここに長慶は、亡き父・元長の積年の無念をようやく晴らすとともに、畿内の主導権を一挙にその手へ握り締めることとなったのである。

京・畿内の制覇

江口の輝かしい勝利によって京の都を手中に収めた長慶は、以後およそ十数年もの長きにわたり、山城・摂津・河内・和泉といった畿内の枢要な地をことごとく強く押さえ込み、四国の本国と合わせて実に広大な勢力圏を、みずからの手で着実に築き上げていくこととなった。かつて父・元長が忠実に仕えてきた主家を、みずからの卓越した実力によって完全に圧倒し、京の都をその手にしっかりと収めた長慶の颯爽たる姿は、下剋上という言葉がまさに体現された、戦国乱世の新たな時代の到来を、天下の人々に強く印象づけるものであった。

京の都を実効的に支配するということは、すなわち天下に向かって号令を下しうる特別な立場を手にすることを意味しており、もはや地方の一大名にはとどまらぬ長慶という存在は、当時の多くの人々の目に、まさに前代未聞の破格のものと映っていたに違いないのである。

将軍・足利義輝との対立と協調

京を追われた将軍・足利義輝とは、その後も長きにわたって和睦と決裂とを幾度となく繰り返し、長慶は時に義輝を京から締め出し、また時にはこれをうやうやしく京へ迎え入れるなど、将軍という古い権威との微妙で難しい距離を、きわめて巧みに操り続けていったのである。義輝を完全に滅ぼしてしまうのではなく、将軍のもつ権威を必要に応じてなお利用しつつ、そのうえで自らの実権をしたたかに確保していくという長慶の姿勢には、旧来の秩序をなお重んじようとする、彼の現実的できわめて慎重な政治感覚が、じつによく表れているといえる。

のちに将軍・足利義輝は、長慶の死後、松永久秀や三好三人衆の手勢によって京の居館を突如襲われ非業の最期を遂げることになるが、少なくとも長慶がなお存命であったあいだは、両者のあいだに一定の緊張をはらんだ危うい均衡が、辛うじて保たれ続けていたのである。

主家・細川氏を実質的に凌駕

長慶は、主家である細川氏の当主を完全に排除してしまうことはあえてせず、名目のうえではなおも主従の形を保ちながらも、実際の政治と軍事の実権をことごとくその手に掌握してしまい、いわば主家を静かに空洞化させる形で、事実上その上位に立ってみせたのである。こうして守護大名であった名門・細川氏を実質的に完全に凌駕した長慶の権力は、由緒ある家柄や旧来の権威によってではなく、あくまで自らの卓越した実力によって力ずくで切り拓かれたものであり、戦国大名の一つの完成された姿を、まことに鮮やかに示していた。

芥川山城と飯盛山城の拠点

畿内を制した長慶は、当初は摂津の芥川山城を堅固な本拠として日々の政務を執り行い、京にもほど近いこの要害の山城から、広大に広がる自らの勢力圏をくまなく鋭く睨みつつ、精力的にみずからの卓越した統治の手腕を、日々あますところなく存分に振るっていったのである。やがて永禄年間に入ると、長慶は本拠を河内の堅固な飯盛山城へと移し、この要害の城を中心として畿内一円に強く号令を下し、多くの家臣や国衆を束ねていく、いわば新たな三好政権の確固たる政治的な中枢というべきものを、時をかけて着実に築き上げていったのである。

飯盛山城を拠点とした時代には、家臣の一部がキリスト教の洗礼を受けることを長慶みずからがおおらかに許すなど、新しい思想や遠い異国の文化に対しても大きく開かれた、彼の柔軟でまことに寛大な人柄と姿勢が、この時代にとりわけよく示されることとなったのである。

三好三兄弟と一族の結束

長慶の強大な権力を根底から支えた最大の基盤は、なんといっても血を分けた頼もしい弟たちの存在であり、三好実休・安宅冬康・十河一存という三人の勇敢な弟が、それぞれ阿波・淡路・讃岐の地をしっかりと押さえて、兄の長慶をきわめて強力に支え続けたのである。四国という豊かな本国を弟たちが固く守り抜き、その豊かな人と物の力を確かな背景として、長慶が遠く離れた畿内で存分に活動することができたというこの構図こそが、他の並みいる戦国大名には容易に見られない、三好一族の際立った大きな強みであったといえる。

血のつながった実の兄弟が互いに背き合うことなく、それぞれ与えられた持ち場を最後まで固く守り抜いたというこの事実は、骨肉相食む醜い争いが絶えなかった戦国の世にあって、まことに稀有というほかない、実に見事な一族の団結のありさまであったといえるだろう。

弟・三好実休の武と教養

長慶のすぐ下の弟であった三好実休は、阿波の実質的な当主として一族の屋台骨をしっかりと支えた頼もしい勇将であり、それと同時に和歌や連歌、茶の湯の道にも深く通じた当代きっての教養人でもあった、まさに文武を高い次元で兼ね備えた人物として知られている。しかしその実休も、永禄五年にあたる1562年、和泉の久米田の戦いにおいて畠山氏の大軍と激しく激突し、獅子奮迅の奮戦のさなかに惜しくも討ち死にを遂げてしまい、長慶にとってはまことに痛恨きわまりない、最初の痛ましい肉親の喪失となってしまったのである。

弟・安宅冬康と淡路水軍

淡路の強力な水軍を率いた弟の安宅冬康は、瀬戸内の広い海上をその手にしっかりと掌握し、三好一族に海の力という他家にはまず見られない大きな強みをもたらした、水軍の名将としてまことに得難く、かけがえのない大きな存在として、一族のなかで重きをなしていたのである。また冬康は、和歌の道をよくたしなみ、小さな虫を愛でるほどに心の優しい人物であったとも伝えられており、荒々しい武辺一辺倒ではけっしてない、三好一族の文化的な奥行きを象徴するかのような、まことに温厚で品のある奥ゆかしい人柄として、世に広く知られていた。

弟・十河一存の猛勇

長慶の末の弟であった十河一存は、讃岐の名族である十河氏の家督を継ぎ、その恐れを微塵も知らぬ荒々しい戦いぶりから「鬼十河」の異名で敵味方の双方から深く畏怖された、三好一族きっての猛将として、天下にその勇名を遠くまで大いに轟かせていた稀代の武将であった。ところがその一存も、永禄四年にあたる1561年に周囲の予想に反して思いがけず急死を遂げてしまい、屈強を誇った弟たちが次々と兄の長慶に先立っていくという、一族の行く末に暗く重い影が、じつはこのころから、次第にひたひたと忍び寄りつつあったのである。

重臣・松永久秀の登用

血を分けた弟たちと並んで長慶を強く支えたのが、その卓越した実務能力によって異例の出世を遂げた重臣・松永久秀であり、久秀は主君である長慶の厚い信任を一身に受けて、三好政権の込み入った内政と外交の両面を、じつに巧みに切り盛りしてみせたのである。出自の定かでない低い身から一代で身を起こし、やがて大和一国をまるごと任されるまでに大きく立身を遂げた久秀の姿は、長慶が家柄よりも実力を重んじたことをよく物語る一方で、後の三好一族の大きな悲劇と分かちがたく結び付けられて、しばしば語られてもきたのである。

長慶が久秀にいったいどれほど厚い信頼を寄せていたかは、彼を大和支配の要としてこのうえなく重んじたことからも明らかであり、両者の緊密な主従の関係は、三好政権の輝かしい全盛期を語るうえで、けっして欠かすことのできない、きわめて重要なものであったといえる。

三好三人衆と強固な家臣団

長慶の強大な政権は、松永久秀のほかにも、三好長逸・三好宗渭・岩成友通のいわゆる三好三人衆をはじめとする、数多くの有能な家臣たちによって幾重にも分厚く支えられ、広大な畿内における込み入った統治の実務を、じつに着実に、そして力強く担っていたのである。血縁で結ばれた弟たちと、その実力によって取り立てられた家臣たちとがまさに車の両輪となって滞りなく機能したことこそが、長慶の一代の権力を一時あれほどまでに強大なものへと押し上げていった、まことに大きくかけがえのない原動力であったといえるだろう。

畿内支配の実態と限界

近年、長慶を「最初の天下人」として高く評価しようとする見方が学界においても次第に高まりつつあるが、その実態はあくまで畿内とその周辺を制した覇者であって、後の織田信長のような全国規模の統一を、そのはじめから明確に目指していたわけではけっしてないのである。長慶の支配は、各地の国衆や有力な寺社、そして将軍家といった旧来の根強い勢力との複雑な均衡のうえに辛うじて成り立っており、その権力は絶大でありながらも、その内には常に不安定さをはらんでいたことを、私たちはけっして見落としてしまってはならないのである。

それでもなお、後の名だたる天下人たちに大きく先立って、畿内という中央の枢要な地を実力で制したというこの事実は動かしがたく、長慶を戦国史の大きな画期として新たに捉え直そうとする近年の見方には、やはりそれなりの確かな理由が確かにあるといえるだろう。

連歌に遊ぶ文化人としての顔

長慶は、武将としての苛烈で冷徹な一面のみならず、当代一流の名だたる連歌師たちと親しく交わり、みずからも数多くのすぐれた句を書き残していった、たいへん造詣の深い一個の文化人としての豊かな顔を、終生にわたり色濃く持ち合わせていた稀有な人物でもあった。血なまぐさい戦乱に明け暮れる厳しい日々のなかにあってもなお、雅やかな連歌の会をしばしば好んで催した長慶の姿には、武と文の双方をきわめて高い次元で兼ね備えようとした、戦国武将の一つの理想の形が、じつにあざやかに、そして鮮明に映し出されているのである。

キリスト教への寛容

長慶は、遠く海を越えて宣教師たちがはるばるもたらした異国の教えであるキリスト教に対しても、これを頑なに排斥することはせず、家臣がその洗礼を受けることをおおらかに許すなど、きわめて寛容で大きく開かれた度量のある態度をもって、静かに接していたのである。異なる文化や信仰に対してこのように柔らかで開かれた姿勢を示した長慶の寛容さは、後に織田信長が見せた新しもの好きの進取の気風にも通じるものであり、長慶という人物の器の大きさと確かな先進性を、じつによく物語る、まことに興味深い一面であったといえるだろう。

相次ぐ肉親の死と失意

権勢のまさに絶頂にあった長慶を、やがて容赦のない不幸が次々と激しく襲いかかり、弟の十河一存、続いて三好実休が相次いでこの世を去り、長年頼みとしていた肉親を立て続けに失った長慶は、しだいに癒えがたい深い悲しみのなかへと、深く沈み込んでいったのである。さらに弟の安宅冬康もまた、長慶自身の手によって謀殺されたのだと伝えられているが、これには讒言を信じ込んだ末の痛ましい誤断であったとも、そもそも確たる根拠を欠くともいわれ、その真相の詳細については今なおさまざまな諸説が入り乱れたままとなっているのである。

嫡男・義興の死、病没と政権の瓦解

度重なる肉親の死にさらに残酷な追い打ちをかけたのが、将来を大いに嘱望されていた嫡男・三好義興の早すぎる死であり、永禄六年にあたる1563年に若くしてこの世を去ったこの愛息の突然の喪失は、老いた長慶の生きる気力を、決定的に奪い去ってしまったのである。こうした弟や子の相次ぐ不審な死には、重臣であった松永久秀の暗躍を疑う黒幕説が後世にしばしばささやかれてきたが、これらはいずれも確かな証拠を欠く風説の域を出るものではなく、あくまで数ある諸説の一つとして、慎重に留保したうえで受け止めるべきものである。

深い失意のうちに、長慶は永禄七年にあたる1564年、河内の飯盛山城においてひっそりと病没し、その死とともに、あれほど強大を誇った三好政権は急速に求心力を失って瓦解へと向かい、やがて新たな覇者である織田信長の華々しい上洛を迎えることとなるのである。

三好長慶をめぐる人物

三好家

主家

三好政勝三好宗渭の肖像イラスト三好長逸の肖像イラスト三好長慶

家臣団

十河存保の肖像岩成友通の肖像イラスト矢野国村の肖像
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