ごとう すみはる
| 地域 | 九州(肥前五島) |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 宇久氏・五島氏 |
| 大名家 | 五島家 |
| 家紋 | ― |
| 主武器 | ―(采配) |
| 衣装・甲冑 | 具足・陣羽織 |
| 武将タイプ | 島の領主 |
五島純玄(ごとう すみはる)は、五島列島を治めた宇久氏の当主で、はじめは宇久純玄と名のった。若いころに洗礼を受け、洗礼名をルイスといった。天正15年(1587)に家督を継ぎ、豊臣秀吉の九州平定の際に帰順して所領を安堵された。文禄の役で朝鮮に渡り、陣中で病に倒れた。
目次
秀吉への帰順
天正15年、父の宇久純尭が亡くなって家督を継いだ純玄は、九州平定のさなかに豊後府内まで出向いて秀吉に謁見し、五島の所領を安堵された。このとき、五島の守りを理由に九州攻めへの参加は免除されている。ところがその直後に出されたバテレン追放令ののち、実権を握っていた大叔父の宇久盛重は領内のキリシタンを厳しく迫害し、家臣の一部が長崎へ逃れる事態になった。
宇久から五島へ
文禄元年(1592)の朝鮮出兵に加わるにあたり、純玄は名字を宇久から、住む島の名である五島に改めたといわれる。また秀吉の甥で「大和中納言」と呼ばれた豊臣秀保に遠慮して、名のりを若狭守に改めている。
文禄の役と陣中での死
五島勢は兵700、軍船17艘で海を渡り、小西行長の一番隊に属して戦った。しかし文禄3年(1594)7月、休戦交渉が続くなかで純玄は疱瘡(天然痘)にかかり、33歳で亡くなった。子がなかったため、小西行長と家臣たちの話し合いで、叔父の五島玄雅が跡を継ぐことになる。玄雅は1万2600石の福江藩の初代となり、五島家は明治まで続いた。純玄の遺体は五島に運ばれ、福江の大円寺に葬られたと伝わる。
五島純玄をめぐる人物
ゆかりの地
- 石田城(福江城)跡(長崎県五島市):五島家の居城となった地
- 大円寺(長崎県五島市):純玄が葬られたと伝わる寺


豊臣秀吉
小西行長
豊臣秀保






















