もう一つの足利家・喜連川家とは|秀吉が残した関東の足利 ― 5千石なのに10万石格、氏姫と国朝の縁組から明治まで【豊臣兄弟!】

古河の御所で、足利氏姫の前に足利国朝が礼をし、秀吉の使者が控える様子を描いた日本画風イラスト

足利義昭が将軍を辞めて出家したことで、京都の足利将軍家は終わりを迎えました。ところが、同じころ豊臣秀吉は、関東に残っていた「もう一つの足利家」を自分の手で残しています。それが、のちに江戸時代を通じて続いた喜連川家です。この記事では、秀吉がなぜ足利家を残したのか、そして5千石の小さな家がなぜ「10万石格」と呼ばれる特別な扱いを受けたのかを見ていきます。

先に答え

小田原攻めで北条家が滅んだあと、秀吉は関東の足利家(古河公方家)の娘・足利氏姫と、長く対立していた分家・小弓公方家の足利国朝を結婚させ、下野の喜連川(栃木県さくら市)に3500石を与えました。これが喜連川家の始まりです。

国朝は文禄2年(1593)に朝鮮出兵へ向かう途中で亡くなり、氏姫は国朝の弟・頼氏と再婚して家が続きました。江戸時代、喜連川家は石高わずか5千石ながら、徳川家から10万石の大名並みの格式を与えられ、参勤交代も免除されるという特別な家になりました。

京都の足利将軍家は義昭で終わりましたが、関東の足利家は、秀吉の手で形を変えて明治まで生き残ったのです。

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目次

関東にあった「もう一つの足利家」

室町幕府を開いた足利尊氏は、京都で将軍となる一方、関東を治めるために子の基氏を鎌倉に置きました。これが「鎌倉公方」で、関東の足利家の始まりです。やがて鎌倉公方の家は京都の将軍家と対立し、15世紀なかばに下総の古河(茨城県古河市)へ本拠を移して「古河公方」と呼ばれるようになります。

ところが戦国時代になると、古河公方の家も分かれます。古河公方の一族だった足利義明が房総の武将たちに担がれて下総の小弓(千葉市)に入り、「小弓公方」を名乗ったのです。古河公方と小弓公方は関東の主の座を争い、義明は天文7年(1538)の第一次国府台合戦で北条氏綱に討たれました。

家始まり戦国時代の当主その後
足利将軍家(京都)初代・尊氏13代義輝、15代義昭天正16年(1588)、義昭が将軍を辞めて終わる
古河公方家(関東)尊氏の子・基氏(鎌倉公方)4代晴氏、5代義氏、義氏の娘・氏姫秀吉の縁組で喜連川家へ
小弓公方家(関東)古河公方家から分かれた足利義明義明、その子・頼純(頼淳)頼純の子・国朝と頼氏が喜連川家へ

小田原攻めと、古河公方家の終わり

古河公方家の5代目・足利義氏は北条家の血を引き、北条家に守られていましたが、天正11年(1583)に亡くなります。跡継ぎの男子もすでに亡くなっていたため、家を継いだのはまだ9歳の娘・氏姫でした。

天正18年(1590)、秀吉の小田原攻めで北条家が滅びると、北条家に頼っていた古河公方家も古河城を出なければならなくなりました。氏姫は近くの鴻巣御所に移り、所領も300石あまりを残すだけになります。関東の足利家は、ここで消えてもおかしくありませんでした。

渡良瀬川の堤に立つ古河城本丸跡の標柱
古河城本丸跡(茨城県古河市)。古河公方の本拠だった古河城は、のちの渡良瀬川の改修工事でほとんどが失われた

秀吉の縁組 ― 二つの足利家を一つに

ここで秀吉が動きます。秀吉は、古河公方家の氏姫と、小弓公方家の血を引く足利国朝(足利義明の孫)を結婚させました。祖父の代から争ってきた二つの足利家が、秀吉の手でおよそ80年ぶりに一つになったのです。

秀吉は国朝に、下野国の喜連川に400貫(3500石)の所領を与えました。以後、この家は「喜連川」を名字とするようになります。ただし氏姫は喜連川には移らず、古河の鴻巣御所で暮らし続けました。

喜連川城跡に残る深い堀切
喜連川城跡(栃木県さくら市)の堀切。秀吉から喜連川を与えられた足利家は、この地を本拠とした(筆者撮影)

秀吉がこの縁組を進めた理由は、名門足利家の断絶を惜しんだためとされます。また、関東に入った徳川家康を見張らせるねらいがあったという見方もありますが、はっきりしたことはわかっていません。

国朝の死と、頼氏への受けつぎ

喜連川家の当主となった国朝でしたが、文禄2年(1593)、朝鮮出兵のため肥前の名護屋へ向かう途中、安芸国で病死してしまいます。同じころ、元将軍の足利義昭も名護屋に陣を構えていました(足利義昭はその後どうなったのか)。

国朝の死後、氏姫は国朝の弟・頼氏と再婚し、頼氏が喜連川の所領を受けつぎました。氏姫と頼氏のあいだには子の義親が生まれ、喜連川家の血筋は続いていきます。氏姫は最後まで古河で暮らし、元和6年(1620)に46歳で亡くなりました。

江戸時代 ― 5千石なのに「10万石格」

関ヶ原の戦いのあと、頼氏は家康に戦勝を祝う使者を送り、慶長7年(1602)に1000石を加えられて4500石となりました。のちに寛政元年(1789)にも500石が加えられ、5千石になります。

喜連川の町から見たお丸山(喜連川城跡)の遠景
喜連川の町から見たお丸山。この丘全体が喜連川城の跡(筆者撮影)

譜代でも外様でもない「天下の客」

江戸時代の大名は1万石以上の領地をもつ家で、徳川家との関係によって親藩・譜代・外様に分けられていました。ところが喜連川家は5千石しかなく、本来なら大名にも届きません。それでも喜連川家は、親藩・譜代・外様のどれにも入らない特別な家として扱われました。徳川将軍の家臣になるのではなく、自らを「天下の客位」と称したとも伝わります。

家康は足利家の家柄を重んじて、喜連川家を粗末に扱いませんでした。享保年間には10万石の国主並みの家格とされ、江戸城で控える部屋も格式の高い大廊下でした。地元では藩主が「御所様」と呼ばれていたとも伝わります。

参勤交代は免除

ほかの大名が1年おきに江戸と領地を行き来した参勤交代も、喜連川家には義務がありませんでした。妻子を江戸に住まわせる必要もなく、幕府への軍役や普請(工事)の負担も免除されています。江戸の屋敷も幕府から与えられず、上野の池之端に自前の屋敷を構えていました。

項目ふつうの大名喜連川家
石高1万石以上5千石(はじめ3500石)
区分親藩・譜代・外様どれにも入らない「客分」
家格石高や家柄に応じる10万石の国主並み
参勤交代あり免除
妻子の江戸住まいありなし
軍役・普請の負担あり免除
江戸城の控えの間家柄や石高による大廊下

ただ、10万石の格式を5千石の収入で保つのは大変でした。川の氾濫や天保の大飢饉も重なり、藩の財政はいつも苦しかったといわれます。

栃木県さくら市に残る喜連川足利氏館の大手門
喜連川足利氏館の大手門(栃木県さくら市)(筆者撮影)
喜連川城跡の広場をふちどる土塁
喜連川城跡の広場をふちどる土塁(筆者撮影)

幕末 ― 将軍慶喜の弟が藩主に、そして新政府へ

幕末の喜連川藩主・縄氏は、水戸藩主・徳川斉昭の十一男で、15代将軍・徳川慶喜の弟でした。文久2年(1862)に先代の宜氏が若くして亡くなったため、養子として迎えられています。足利尊氏の子孫の家に、徳川将軍の弟が藩主として入ったことになります。

慶応4年(1868)に戊辰戦争が始まると、喜連川藩は新政府に従う道を選びました。明治元年5月には重臣を京都へ送って恭順を申し出て、7月には新政府軍に兵糧を差し出します。8月には肥前藩の兵とともに白河へ兵を送り、白河小峰城をめぐる戦いにも加わりました。東北・北越の諸藩がつくった奥羽越列藩同盟には加わっていません。藩主の縄氏自身が上洛しなかったのは、実の兄である慶喜と正面から対立するのを避けたかったためとも考えられています。

藩のなかでも緊張がありました。藩が会津藩と内通していると新政府に訴え出た家臣の父子がいて、縄氏はこの父子を処分しています。小さな藩が新しい時代の流れを読み、生き残りをかけて新政府の側に立った様子がうかがえます。

喜連川藩の幕末の動きは、姉妹サイトの喜連川藩(幕末歴史ガイド)と、現地を歩いた【現地取材】喜連川城跡と喜連川藩(幕末歴史ガイド)でくわしく紹介しています。

明治 ― ふたたび「足利」へ

明治元年(1868)、縄氏は家の名字を喜連川から足利に戻しました。翌明治2年に縄氏が病のため隠居すると、跡を継いだ聡氏が版籍奉還で知藩事となり、華族に列せられます。そして明治3年(1870)、聡氏は廃藩置県を待たずに知藩事を返上し、喜連川藩は日光県に組み込まれて消えました。

秀吉の縁組から数えて、およそ280年。関東の足利家は、喜連川家として江戸時代を生き抜き、ふたたび足利を名乗って近代を迎えたのです。

喜連川城跡があるお丸山公園の入口の門
喜連川城跡があるお丸山公園の入口(筆者撮影)

【考察】秀吉はなぜ、二つの足利家を大切にしたのか

ここからは筆者の考えです。秀吉は京都の足利義昭に1万石を与え、関東の足利家には喜連川の所領を与えました。どちらも、武力で天下を取った秀吉が、古い名門をていねいに扱った例です。

足利家は、200年以上にわたって武家の頂点にいた家でした。その血筋を自分の手で守ることは、秀吉の天下が「武家の秩序を受けつぐ正しいもの」であることを示すことにつながります。しかも、義昭は出家し、関東の足利家は小さな所領に収まったため、どちらも秀吉の天下をおびやかす力はありません。名誉は与えつつ、力は持たせない。秀吉らしい、たくみな扱い方だったといえるでしょう。

京都の足利将軍家関東の足利家(喜連川家)
最後の当主・始まり15代 足利義昭足利氏姫と足利国朝
秀吉の扱い出家させ、1万石と准三后縁組させ、喜連川に3500石
その後義昭の死(1597)で終わる喜連川藩として明治まで続く

まとめ

京都の足利将軍家は足利義昭で終わりましたが、関東の足利家は、秀吉が氏姫と国朝を結婚させたことで喜連川家として残りました。江戸時代の喜連川家は、5千石の小さな家ながら譜代でも外様でもない「客分」として10万石格の扱いを受け、参勤交代も免除されました。幕末には将軍慶喜の弟を藩主にいただきながら新政府の側に立ち、明治にはふたたび足利の姓に戻っています。秀吉が残したもう一つの足利家は、戦国の名門が新しい時代を生き抜いた、めずらしい例だといえるでしょう。喜連川城の現在の様子は、姉妹サイトの喜連川城(日本の歴史ガイド)で紹介しています。

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