あしかが よしあき
| 地域 | 近畿 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 室町幕府 |
| 大名家 | 室町幕府 |
| 家紋 | 二つ引両 |
| 主武器 | 陣太刀・上洛書状 |
| 衣装・甲冑 | 将軍具足 |
| 武将タイプ | 執念・信長包囲網 |
室町幕府最後の将軍
足利義昭は室町幕府の第十五代将軍であり、二百数十年にわたって続いた足利政権の終焉に立ち会った人物として、日本史のうえに特異な位置を占めている存在である。一介の僧籍にあった身から兄の横死をきっかけに還俗し、諸国を流浪したのち織田信長の力を借りて上洛を果たし、ついに将軍の座へと上りつめた経歴は、まさに戦国乱世の縮図とも呼ぶべき波乱に満ちたものであった。しかし信長との蜜月は長くは続かず、やがて両者は激しく対立し、義昭は各地の大名を糾合していわゆる信長包囲網を築いたものの、最後には京を追われて幕府は事実上の滅亡を迎えることとなったのである。
生い立ちと仏門への入り
足利義昭は一五三七年、室町幕府第十二代将軍であった足利義晴の子として生まれ、幼名を千歳丸と称し、のちに覚慶と名乗って仏門に身を置くこととなった人物である。当時の武家社会では家督を継がぬ子弟が寺院へ入ることは珍しくなく、義昭もまた将軍家の次男という立場から興福寺の一乗院に入室し、僧としての道を歩み始めたと伝わっている。若き日の覚慶は経典や学問に親しみながら奈良の地で静かな日々を送っており、当初は世俗の政争とは無縁の生涯を全うするはずの身の上であったと考えられている。
兄・足利義輝の横死
義昭の運命を大きく転じさせたのは、一五六五年に起きた兄であり第十三代将軍であった足利義輝の暗殺、いわゆる永禄の変と呼ばれる衝撃的な事件であった。剣豪将軍として知られた義輝は、三好義継や松永久通らの軍勢に二条御所を襲撃され、みずから太刀を振るって奮戦したものの、衆寡敵せず非業の最期を遂げたと伝えられている。この凶変によって将軍家の血筋を継ぐ者は限られ、僧籍にあった覚慶にもまた危険が及ぶこととなり、彼は一乗院に幽閉同然の身となって監視下に置かれたのである。
脱出と還俗の決意
幽閉された覚慶は、細川藤孝や和田惟政ら義輝の遺臣たちの手引きによって奈良を脱出し、近江の和田城へと身を寄せることに成功したと伝わっている。この決死の脱出行を機に、彼は将軍家再興という重い使命を一身に背負う覚悟を固め、やがて還俗して名を義秋と改め、のちにさらに義昭と名乗るようになったのである。僧としての穏やかな生涯を捨て、乱世のただ中へとみずから飛び込んでいったこの決断こそが、足利義昭という一人の武将の実質的な出発点であったといえる。
諸国流浪と支援者の模索
還俗した義昭が直面したのは、みずからを奉じて上洛を実現してくれる有力な大名を見出さねばならないという、きわめて困難で切実な課題であった。彼は近江の六角氏や若狭の武田氏、さらには越前の朝倉氏のもとを転々と渡り歩き、各地の実力者に対して将軍家再興への協力をたびたび呼びかけたと伝えられている。とりわけ越前の朝倉義景のもとには長く滞在したものの、義景は上洛にきわめて消極的であったため、義昭の悲願はなかなか実を結ばず、焦燥の日々が続いたのである。
織田信長との出会い
朝倉氏に見切りをつけた義昭が最後の望みを託したのが、当時尾張から美濃へと勢力を急速に拡大させつつあった新興の実力者、織田信長であった。信長は義昭を奉じて上洛することが、みずからの天下への大義名分を得るうえできわめて有利に働くと判断し、この将軍候補を迎え入れる決断を下したと考えられている。義昭にとって信長は待ち望んだ強力な後ろ盾であり、信長にとって義昭は権威を伴う旗印であって、両者の利害はこの時点では見事に一致していたのである。
上洛の実現
一五六八年、信長は義昭を奉じてついに上洛の軍を起こし、進路を阻む近江の六角氏を観音寺城の戦いにおいて瞬く間に打ち破り、京への道を切り開いたのである。畿内に割拠していた三好三人衆らの勢力も信長の圧倒的な軍事力の前には抗しがたく、次々と敗退あるいは退散していき、義昭一行は無事に京の都へと入ることができた。長らく流浪を重ねてきた義昭にとって、この上洛の成就はまさに悲願の達成であり、将軍家再興への確かな第一歩がここに刻まれたのであった。
第十五代将軍への就任
京に入った義昭は同じ一五六八年のうちに正式に征夷大将軍の宣下を受け、室町幕府第十五代将軍としてここに名実ともにその座に就くこととなったのである。義昭は上洛を成し遂げてくれた信長に対して深い感謝の念を抱き、彼を父とも兄とも頼むという言葉を書状に記して、その功績を最大限に称えたと伝えられている。将軍就任の当初においては、義昭と信長の関係はきわめて良好であり、二人の協力によって荒廃した幕府の権威が再び回復されるかに見えたのであった。
将軍としての政権運営
将軍となった義昭は幕府の機構を整え、諸国の大名に対して御内書と呼ばれる将軍直々の書状を発給するなど、旧来の権威を活用して政務にあたろうと努めたのである。義昭は決して名目だけの傀儡に甘んじるつもりはなく、みずからの意思によって幕政を主導し、失われた将軍家の実権を取り戻そうとする強い意欲を抱いていたと考えられている。しかし現実の畿内には信長という圧倒的な軍事力を持つ存在が控えており、義昭の描く自立した幕府像と信長の構想との間には、当初から根深い緊張が潜んでいたのである。
信長との関係悪化
蜜月と見えた両者の関係は、義昭が将軍としての実権を志向し、信長がその行動を制約しようとするなかで、次第に埋めがたい亀裂を深めていくこととなった。信長は義昭の権力行使にさまざまな制限を加え、諸大名への御内書の発給などについても信長の了承を要するよう求めるなど、将軍の自由な政治活動を厳しく縛ろうとしたのである。権威の回復を志す義昭にとって、こうした信長の締めつけは到底受け入れがたいものであり、両者の対立は表面には出ずとも水面下で着実に激化していったと伝わっている。
殿中御掟と将軍への制約
信長は義昭に対していわゆる殿中御掟と呼ばれる一連の条書を突きつけ、将軍の行動や政務のあり方を細部にわたって規制しようと試みたと伝えられている。この条書は諸国への御内書に信長の添状を要することなどを定めており、事実上、義昭の政治的裁量を大きく制限して信長の統制下に置こうとする意図を含むものであった。義昭はこれらの制約を屈辱と受け止め、みずからの将軍としての誇りと権威を守るためにも、信長に対する反発の念を内心でいっそう強めていったのである。
信長包囲網の形成
信長との対立を決定的なものと定めた義昭は、将軍の権威を最大限に活用し、各地の有力大名に対して御内書を送って反信長の連携を呼びかける戦略へと踏み切ったのである。この呼びかけに応じて、越前の朝倉義景、近江の浅井長政、甲斐の武田信玄、さらには石山本願寺や各地の一向一揆勢力などが結集し、いわゆる信長包囲網が形づくられていった。将軍という比類なき権威を武器として広範な反信長連合を編成しえた点にこそ、政治的策略家としての義昭の面目躍如たる一面が示されているといってよいであろう。
各地の大名との連携
義昭が築いた包囲網は畿内近国にとどまらず、中国地方の毛利元就の一族や越後の上杉謙信にまで及び、信長を四方から圧迫する広大な包囲の構図を描き出したのである。将軍の御内書は各大名にとって挙兵の大義名分を与える重要な意味を持っており、義昭はこの権威という無形の力を巧みに操って諸勢力を動かそうとしたと考えられている。もっとも、これらの大名たちはそれぞれに独自の思惑と利害を抱えており、包囲網の連携は必ずしも一枚岩ではなく、その結束には初めから脆さがつきまとっていたのである。
武田信玄の西上と包囲網の頂点
信長包囲網が最も強大な圧力を発揮したのは、一五七二年に甲斐の武田信玄が大軍を率いて西上を開始し、信長の同盟者である徳川家康を圧倒したときであった。信玄は三方ヶ原の戦いにおいて家康軍に壊滅的な打撃を与え、その勢いのまま信長の本拠へと迫るかに見え、義昭の描いた反信長構想は実現の一歩手前まで近づいたのである。しかし翌一五七三年、進軍の途上で信玄が病によって陣没したと伝えられ、この巨星の突然の落命によって包囲網は最も重要な支柱を失うこととなったのであった。
義昭の挙兵と敗北
武田信玄の西上に呼応するかたちで、義昭はついに信長に対して公然と反旗を翻し、みずから兵を挙げて京の周辺に立てこもり、信長との全面対決の姿勢を鮮明にしたのである。しかし信玄がすでに没していたこともあり、包囲網の勢いは急速に萎み、単独で信長の大軍に立ち向かうことになった義昭の軍事的な基盤はあまりにも脆弱であった。信長はみずから軍を率いて上洛し、義昭のこもる城砦を攻め、あるいは京の一部を焼き払うなどして圧力を加え、義昭を軍事的にも政治的にも追い詰めていったのである。
京からの追放と幕府の滅亡
一五七三年、信長の軍事的圧力の前についに屈した義昭は、抗戦を続けることが不可能となり、山城の槇島城において信長に降伏し、京の都から追放される運命をたどることとなった。この義昭の追放をもって、足利尊氏の開府以来およそ二百数十年にわたって存続してきた室町幕府は、実質的にその歴史の幕を閉じたと一般に理解されているのである。もっとも義昭自身は将軍職を直ちに剥奪されたわけではなく、その後もなお将軍としての名分を保ち続け、みずからの復権をあきらめてはいなかったと伝えられている。
追放後の流浪
京を追われた義昭は畿内の各地を転々としながら、なおも信長打倒の望みを捨てず、諸国の大名に対して反信長の連携を呼びかける活動を執拗に続けたと伝わっている。彼は河内や紀伊などに身を寄せつつ、各地の勢力に働きかけを重ねたものの、信長の勢威が日を追って高まるなかで、その呼びかけに応じる大名は次第に少なくなっていったのである。将軍の座を追われてなお諦念に沈むことなく、再起を図って各地を渡り歩いた義昭の執念には、悲運のなかにも一種の強靭さがにじみ出ているといってよいであろう。
毛利氏のもとでの亡命生活
流浪の果てに義昭が最終的に身を寄せたのが、中国地方に大きな勢力を誇る毛利氏であり、彼は備後の鞆の地に移って、いわゆる鞆幕府とも称される亡命政権を営んだのである。毛利氏の庇護のもとで、義昭は依然として将軍としての権威を保持しながら、信長やその後継となった羽柴秀吉に対抗する諸勢力の結集を粘り強く模索し続けたと伝えられている。この鞆の地における義昭の活動は、失われた幕府の残影を辛うじて灯し続けるものであり、時勢に抗いながらも将軍の名分を手放さなかった彼の姿勢を象徴するものであった。
豊臣秀吉との和解と帰洛
本能寺の変によって信長が横死し、やがて羽柴秀吉が天下の実権を握るという大きな時代の転換のなかで、義昭を取り巻く状況もまた徐々に変化していったのである。天下統一を推し進める秀吉との間で和解が成り、義昭はついに将軍職を辞して京へと帰還し、長きにわたった流浪と亡命の生活に一つの区切りをつけることとなった。かつて天下に号令した将軍は、いまや新たな覇者となった秀吉のもとで一万石ほどの待遇を受ける身となり、時代の主役の交代を静かに受け入れたと伝えられている。
晩年と死
将軍職を退いたのちの義昭は出家して昌山と号し、秀吉のもとで御伽衆のような立場に列せられ、往時の権勢とはかけ離れた穏やかな余生を京の地で送ることとなったのである。かつて信長と天下を争い、広大な包囲網を築いて乱世を揺るがした人物が、最後は一人の高貴な隠者として静かな晩年を過ごしたという事実には、深い感慨を禁じえないものがある。義昭は一五九七年に生涯を閉じたと伝えられ、室町幕府最後の将軍としての波乱に満ちた六十年余りの人生は、ここにその終わりを迎えたのであった。
本願寺・一向一揆勢力との連携
足利義昭が構築した信長包囲網のなかでも、とりわけ持続的かつ厄介な脅威として信長を苦しめたのが、石山本願寺を中心とする浄土真宗の門徒たち、いわゆる一向一揆勢力との連携であった。義昭は将軍としての権威を背景に本願寺の顕如に働きかけを重ね、信仰によって固く結束した門徒集団を反信長の陣営へと引き込むことに成功し、畿内における抵抗の一大拠点を築き上げたのである。
本願寺は摂津の石山を要害として長きにわたり信長に抗戦し、越前や伊勢長島などの一向一揆もこれに呼応したため、信長は宗教的情熱に支えられた民衆の蜂起という、武力だけでは容易に鎮められぬ敵と向き合うこととなった。
御内書と将軍権威の実像
足利義昭が諸国の大名を動かすうえで最大の武器としたのが、将軍が直々に発給する私的な書状である御内書であり、これは失われつつあった幕府の権威を象徴する重要な手段であった。たとえ実質的な軍事力を欠いていても、征夷大将軍の名において発せられる御内書は諸大名に挙兵の大義名分を与える力を持ち、義昭はこの無形の権威を巧みに用いて広範な連合の形成を図ったのである。
もっとも御内書の効力は各大名の思惑にも大きく左右され、彼らが自らの利害に照らして応じるか否かを判断した以上、将軍権威は絶対のものではなく、あくまで政治的取引の一要素にとどまっていた点も見落としてはならない。
鞆幕府をめぐる近年の再評価
京を追われた義昭が備後の鞆の地に営んだ亡命政権は、かつては実体を伴わぬ有名無実の存在として軽んじられ、追放をもって室町幕府は滅んだとする見方が長らく通説とされてきたのである。しかし近年の研究においては、義昭が鞆の地にあってもなお将軍としての名分を保ち、諸大名との交渉や政務を継続していた事実が重視され、いわゆる鞆幕府を一定の政治的実体として捉え直す議論が進められている。
この再評価は、室町幕府の終焉を一五七三年の追放という一点に固定するのではなく、義昭が将軍職を辞して帰洛するまでの時期を含めて連続的に理解しようとするものであり、幕府滅亡の像そのものに再考を迫るものとなっている。
人物像をめぐって
足利義昭という人物については、信長に翻弄された無力な傀儡将軍とみなす見方と、将軍の権威を駆使して信長包囲網を築いた老練な策略家とみなす見方とが、古くから並び立ってきた。近年の研究においては、みずからの意思によって諸大名を動かし、幕府の権威回復を粘り強く追求した能動的な政治家としての側面が、あらためて注目を集めるようになっている。僧籍から身を起こして将軍にまで上りつめ、追放されてもなお再起を図り続けたその生涯は、単なる時代の敗者という言葉では到底とらえきれない複雑さと執念に彩られているのである。
後世の評価と大河ドラマ
室町幕府に終止符を打った将軍として、義昭はしばしば衰亡する権威の象徴として語られてきたが、その評価は時代とともに少しずつ多面的なものへと変わりつつあるといってよい。戦国時代を扱う大河ドラマや各種の歴史作品においても、義昭はしばしば信長と対峙する重要な人物として描かれ、その屈折した野心や執念が視聴者の関心を集めてきたのである。一つの時代の終焉を体現しながらも、みずからの理想と権威を最後まで手放さなかった足利義昭の生涯は、乱世の非情さと人間の意地を今日に伝える貴重な歴史の証言といえるであろう。

