高天神城の戦いをわかりやすく解説|勝頼が落とし家康が奪い返した城 — 「見捨てられた城」が武田滅亡を招いた理由

急な崖に囲まれた山城・高天神城を攻め上る武田の大軍のイラスト

遠江(静岡県西部)の高天神城(たかてんじんじょう)は、「高天神を制する者は遠江を制す」といわれた山城です。この城をめぐって、武田と徳川は何度も激しく争いました。天正2年(1574年)には武田勝頼が攻め落とし、天正9年(1581年)には徳川家康が長い兵糧攻めの末に奪い返します。この記事では、二度の高天神城の戦いと、それが武田家の滅亡にどうつながったのかを、わかりやすく解説します。

高天神城の戦いの基本データ

いつ 第一次:天正2年(1574年)5〜6月/第二次:天正8年(1580年)10月〜天正9年(1581年)3月
どこ 遠江国の高天神城(静岡県掛川市上土方・下土方)
誰と誰 第一次:武田勝頼 対 徳川家康(城主・小笠原信興)/第二次:徳川家康 対 武田方(城将・岡部元信)
兵力 第一次は武田方約2万5千といわれる。第二次は徳川方が城を長期間包囲
結果 第一次は武田方が城を落とす。第二次は徳川方が兵糧攻めで奪い返し、城兵の多くが討ち死に
この後 勝頼は高天神城を見捨てたとされて信用を失い、翌天正10年(1582年)の武田氏滅亡につながる
目次

高天神城の戦いを3行でいうと

  • 遠江の要の山城・高天神城をめぐり、武田と徳川が長い間取り合いを続けた
  • 1574年に武田勝頼が城を落とし、父・信玄も落とせなかった城を手に入れたと評判になった
  • 1581年、家康が城を囲んで兵糧攻めで奪い返した。援軍を送れなかった勝頼は家臣たちの信頼を失った

なぜ高天神城が重要だったのか

高天神城は、標高130メートルほどの山の上にある城で、まわりを急な崖に囲まれた守りの固い城でした。遠江の東部にあり、駿河を手に入れた武田家にとっては遠江へ攻め込む足がかりに、浜松城を本拠とする徳川家にとっては東の守りの要になる城です。そのため、両家にとって絶対に手放せない城でした。

第一次高天神城の戦い(1574年)— 勝頼、父も落とせなかった城を落とす

急な崖に囲まれた山城・高天神城を攻め上る武田の大軍のイラスト
天正2年、武田勝頼は2万5千ともいわれる大軍で高天神城を囲み、攻め落とした(イラスト)

天正元年(1573年)に武田信玄が亡くなり、跡を継いだ勝頼は、翌天正2年5月、約2万5千の兵で高天神城を囲みました。城を守っていたのは、徳川方の小笠原信興(氏助)です。

家康は兵が少なく、自分だけでは救援に向かえませんでした。織田信長に援軍を頼みましたが、信長の到着は遅れます。城兵はおよそ1か月持ちこたえましたが、6月、ついに城主の信興は降伏し、城を明け渡しました。信長の援軍が浜名湖のあたりまで来たのは、その直後のことだったといわれます。

信玄も落とせなかった(とされる)高天神城を落としたことで、勝頼の名声は大きく高まりました。武田家の領地は、このころ最も広くなります。

長篠の敗戦と、高天神城の孤立

しかし翌天正3年(1575年)、勝頼は長篠の戦いで織田・徳川連合軍に大敗し、多くの重臣を失います。ここから流れが変わりました。

家康は、高天神城のまわりに横須賀城や「高天神六砦」と呼ばれる砦をいくつも築き、少しずつ城を締めつけていきます。武田方は、遠い甲斐や駿河から高天神城へ兵糧や兵を送り込むのがどんどん難しくなっていきました。

第二次高天神城の戦い(1580〜81年)— 兵糧攻めと、見捨てられた城兵

堀と柵で囲まれた高天神城から打って出る城兵と、待ち構える徳川の大軍のイラスト
天正9年3月、兵糧の尽きた高天神城の兵は城を出て最後の突撃を行った(イラスト)

天正8年(1580年)10月、家康は高天神城を完全に囲みました。城を守っていたのは、今川家の旧臣で、桶狭間の戦いのあと義元の首を取り返したことで知られる岡部元信です。城には武田方の兵、数百人以上がこもっていました。

家康は、堀や柵を何重にもめぐらせて城を囲み、外から食糧が入らないようにしました。城の兵糧は尽き、城兵は勝頼に助けを求めましたが、勝頼は援軍を送ることができませんでした。北の上杉家や、東の北条家との関係も悪くなっており、大軍を遠江に向けられる状況ではなかったのです。

城兵は降伏を申し出たといわれますが、信長は家康に、降伏を受け入れないよう指示しました。勝頼が城を見捨てたことを世に示し、武田家の信用を落とすためだったと考えられています。

天正9年(1581年)3月22日、飢えに追いつめられた城兵は城を出て最後の突撃を行い、岡部元信をはじめ多くの兵が討ち死にしました。高天神城は、こうして徳川の手に戻りました。

その後 — 武田家の信用の失墜と滅亡

「勝頼は高天神城を見捨てた」。このことは、武田家に従う武将たちの心を大きくゆさぶりました。主君が助けに来てくれないなら、武田についている意味はない。そう考える武将が増えていったのです。

翌天正10年(1582年)2月、信長・家康が武田領へ攻め込むと、木曽義昌や穴山梅雪など、武田の一族や重臣が次々に寝返りました。3月、勝頼は天目山のふもとの田野で自害し、武田家は滅びます。高天神城の落城から、わずか1年後のことでした。

高天神城の戦いのゆかりの地

  • 高天神城跡(静岡県掛川市上土方・下土方):国の史跡。東峰と西峰に分かれた山城で、本丸跡や堀切が残る
  • 横須賀城跡(静岡県掛川市西大渕):家康が高天神城を攻めるために築かせた城。丸い河原石を積んだ石垣が特徴。国の史跡
  • 浜松城(静岡県浜松市):家康の本拠。武田との戦いのあいだ、家康はここを拠点にした

筆者のひとこと

勝頼は、高天神城の落城に至るまでの前哨戦、いわば外交戦で、すでに負けていた気がします。それでも、少しでも援軍を送るべきでした。

この戦いに登場した主な武将(武田方)

この戦いに登場した主な武将(徳川方)

※当サイトの合戦イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが場面や構図を指定して制作した想像図です。実際の布陣や装束をそのまま再現したものではありません。

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