大河『豊臣兄弟!』の登場人物ガイド ― 誰がどの役?(第39回「茶々の本心」)
大河『豊臣兄弟!』第39回「茶々の本心」の最後の語りでは、秀吉の妻となった茶々(淀殿)が、のちに大坂城で自ら命を絶つことが告げられました。茶々はなぜ死ななければならなかったのか。どのような経緯をたどり、どこで最期を迎え、いまどこで弔われているのか。この記事では、その4つの疑問に順に答えていきます。
先に結論
- いつ:慶長20年(1615)5月8日。大坂夏の陣で大坂城が落ちた翌日
- どこで:大坂城の山里丸(やまざとまる)にあった蔵の中。子の秀頼とともに自害したと伝わる
- なぜ:徳川家の求める「江戸への人質」「大坂城からの国替え」などを最後まで受け入れず、戦に敗れたため
- 墓と位牌:墓は大阪・梅田近くの太融寺に。位牌の所在ははっきりした記録が少なく、京都の養源院などが供養の場として知られる
淀殿の最期 ― 要点の早見表
| 没年月日 | 慶長20年(1615)5月8日 |
|---|---|
| 年齢 | 永禄12年(1569)生まれとすると、満46歳(数え47歳) |
| 場所 | 大坂城・山里丸の蔵(現在の大阪城公園内) |
| 死因 | 自害(落城による) |
| ともに亡くなった人 | 子の豊臣秀頼、乳母の大蔵卿局、大野治長ら |
| 墓 | 太融寺(大阪市北区)。明治10年(1877)に移されたもの |
なぜ死ななければならなかったのか ― 4つの分かれ道
淀殿は、生まれてから二度も落城を経験しています。父・浅井長政の小谷城、母・お市の方と義父・柴田勝家の北ノ庄城。そして三度目の落城で、ついに自分が城と運命をともにすることになりました。そこに至るまでには、引き返せたかもしれない分かれ道がいくつもありました。
分かれ道1:関ヶ原のあと、豊臣家は「一大名」になった
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いのあと、徳川家康は天下の実権を握り、慶長8年(1603)には征夷大将軍となります。豊臣家は摂津・河内・和泉を中心とする大名の立場に置かれましたが、淀殿と秀頼は、なお自分たちを天下人・秀吉の後継ぎと考えていました。この「立場の認識のずれ」が、最後まで尾を引きます。
分かれ道2:方広寺の鐘と「3つの条件」(慶長19年・1614)
秀頼が再建した京都・方広寺の大仏殿の鐘に刻まれた文字(「国家安康」など)を、徳川方は家康を呪うものだと問題にしました。交渉役の片桐且元が持ち帰った解決案は、秀頼を江戸に参勤させる、淀殿を人質として江戸に置く、秀頼が大坂城を出て国替えに応じる、のいずれかを選ぶというものでした。
淀殿はこれに強く反発し、且元は裏切りを疑われて大坂城を去ります。徳川との話し合いの窓口を、自ら失ってしまったのです。
分かれ道3:冬の陣の和睦と、埋められた堀(慶長19年末)
同じ年の冬、大坂冬の陣が起こります。真田信繁(幸村)の真田丸などで豊臣方は善戦しましたが、徳川方の大砲が本丸に撃ち込まれたこともあり、和睦が結ばれました。その条件として、大坂城の外側の堀と二の丸・三の丸の堀が埋められ、難攻不落の城は守りを失います。
分かれ道4:最後の要求を拒む(慶長20年・1615春)
翌年、家康は城に集まった浪人を追い出すか、秀頼が大坂城を出て大和や伊勢へ移るかを求めました。豊臣方はこれを受け入れず、大坂夏の陣が始まります。堀を失った城で、勝ち目はほとんど残されていませんでした。
こうして振り返ると、淀殿は何度も「城を出る」選択を迫られ、そのたびに拒んできたことがわかります。二度の落城で城を出て生き延びた少女は、三度目には城にとどまることを選んだともいえます。
最期の二日間 ― 5月7日と8日
5月7日、天王寺・岡山の戦いで豊臣方は総崩れとなり、真田信繁や毛利勝永らの奮戦もむなしく、大坂城は炎に包まれました。
5月8日、淀殿と秀頼は焼け残った山里丸の蔵に逃れます。秀頼の妻で家康の孫にあたる千姫が城を出て、祖父と父に二人の助命を願いましたが、聞き入れられませんでした。蔵を囲んだ徳川方から鉄砲が撃ち込まれ、淀殿は秀頼や側近たちとともに自害したと伝わります。蔵には火がかけられ、遺体ははっきりとは確認されなかったともいわれます。
この日にともに亡くなった人、城を出て生き延びた人については、淀殿の最期|大坂城でともに自害した人・生き延びた人の一覧で一人ずつ紹介しています。
どこで亡くなったのか ― 大坂城・山里丸
山里丸は、大坂城の本丸の北側にあった一画です。秀吉の時代には、山里の風情をうつした庭や茶室が設けられ、茶会が開かれた場所でした。秀吉が茶を楽しんだ場所で、その妻と子が最期を迎えたことになります。
いまの大阪城は、豊臣時代の城を埋めた上に徳川幕府が築き直したもので、当時の山里丸そのものは地下に眠っています。現在の大阪城公園の山里丸跡には「豊臣秀頼 淀殿ら自刃の地」の碑が立ち、静かに手を合わせることができます。
墓はどこにある? ― 鴫野から太融寺へ
淀殿の遺骨は、生前に淀殿があつく信仰していたという、大坂城の東にあった鴫野(しぎの)の弁天島に葬られたと伝えられ、のちに淀姫神社としてまつられました。
明治10年(1877)、このあたりが陸軍の練兵場として造成されることになり、墓は大阪・梅田に近い太融寺(大阪市北区太融寺町)の境内に移されました。墓石には「大淀院英岩」の法名が刻まれ、もとは九輪の塔でしたが、戦災で傷み、現在は六重の石塔になっています。境内の奥まった一角にひっそりと立っています。
| 場所 | 内容 |
|---|---|
| 太融寺(大阪市北区) | 淀殿の墓。明治10年に鴫野から移されたもの |
| 大阪城公園・山里丸跡 | 「豊臣秀頼 淀殿ら自刃の地」の碑 |
| 養源院(京都市東山区) | 淀殿が父・浅井長政のために建てた寺。妹の江がのちに姉と秀頼を弔った |
位牌はどこにある?
じつは、淀殿個人の位牌が「この寺に確かにある」と言える、はっきりした記録は多くありません。豊臣家を滅ぼした徳川の世では、淀殿を公に弔うことははばかられたため、供養の跡が残りにくかったと考えられます。
そのなかで、淀殿とのつながりがもっとも深い寺が、京都・三十三間堂の東隣にある養源院(ようげんいん)です。文禄3年(1594)、淀殿が父・浅井長政の菩提を弔うために秀吉に願って建てた寺で、寺の名は長政の法名「養源院」からとられています。大坂城が落ちた翌年の元和2年(1616)5月7日には、淀殿の妹で徳川秀忠の妻となった江(崇源院)が、姉と秀頼の菩提を弔いました。その後、焼失した寺を再建したのも江です。
敵味方に分かれた姉を、徳川将軍の妻となった妹が弔った寺。淀殿の位牌や供養について確かめたい方は、拝観の際に寺に直接たずねてみてください。養源院は不定休のため、訪れる前に拝観日の確認をおすすめします。
淀殿ゆかりの地を訪れるには
| 場所 | 住所 | アクセス |
|---|---|---|
| 養源院(ようげんいん) | 京都府京都市東山区三十三間堂廻町656(三十三間堂の東隣) | 京都駅から市バス206系統で約5分「博物館三十三間堂前」下車、徒歩3分。京阪七条駅から徒歩8分。拝観は有料・不定休 |
| 太融寺(たいゆうじ) | 大阪府大阪市北区太融寺町3-7 | 地下鉄谷町線東梅田駅から徒歩7分、大阪駅から徒歩10分。境内の拝観は自由 |
| 豊臣秀頼 淀殿ら自刃の地(碑) | 大阪城公園内・山里丸跡 | 大阪城天守閣の北側 |
拝観時間や休みは変わることがあるため、お出かけ前に各寺の案内でご確認ください。
母・お市と重なる最期
淀殿の母・お市の方は、北ノ庄城で夫・柴田勝家とともに自害し、三人の娘を城から逃がしました。その長女が、32年後、今度は自分の子とともに城で命を絶ちます。違いは、お市が娘たちを外へ出したのに対し、淀殿は息子とともに城に残ったことでした。
『豊臣兄弟!』第39回では、茶々が母お市の「自分で決めた」最期を思い出しながら、秀吉の妻になる道を選びました。その選択の先に、この最期が待っていたことになります。
よくある質問
Q. 淀殿(茶々)はなぜ死んだのですか?
A. 大坂夏の陣で豊臣方が敗れ、大坂城が落ちたためです。徳川方が求めた人質や国替えを受け入れず、最後は秀頼とともに自害したと伝わります。
Q. 淀殿はどこで亡くなりましたか?
A. 大坂城の山里丸にあった蔵の中とされます。現在の大阪城公園には「豊臣秀頼 淀殿ら自刃の地」の碑があります。
Q. 淀殿のお墓はどこですか?
A. 大阪市北区の太融寺です。もとは大坂城の東の鴫野に葬られ、明治10年に移されました。
Q. 淀殿の位牌はどこにありますか?
A. 所在をはっきり示す記録は多くありません。淀殿が建て、妹の江が姉を弔った京都の養源院が、もっともゆかりの深い寺として知られています。
まとめ
淀殿は、慶長20年(1615)5月8日、大坂城の山里丸で秀頼とともに自害しました。方広寺の鐘をめぐる条件、冬の陣の和睦、最後の国替えの要求と、城を出る道はいくつもありましたが、淀殿はそのたびに大坂城にとどまることを選びました。墓は大阪の太融寺に、そして父のために建てた京都の養源院には、敵方となった妹・江が姉を弔った歴史が残っています。
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