天正13年(1585年)の春、紀伊の平野が一面の濁水に沈んだ。羽柴秀吉が、紀州平定の最後の抵抗拠点である太田城を、全長七キロにおよぶ長大な堤で囲み、紀の川の水を引き込んで水びたしにしたのである。備中高松城、武蔵の忍城とならんで「日本三大水攻め」に数えられる、太田城の水攻めだ。
そして、この紀州平定で一気に存在感を増したのが、秀吉の弟・羽柴秀長だった。2026年の大河ドラマ「豊臣兄弟!」の主人公である。水に沈んだ城の物語を、弟・秀長の視点も交えてたどってみよう。
紀州征伐とは — 秀吉が紀伊に攻め込んだ理由
本能寺の変(1582年)で織田信長が斃れ、羽柴秀吉が天下取りへ動き出すと、畿内のすぐ南に残る独立勢力が目ざわりになった。紀伊国の雑賀衆(さいかしゅう)と根来衆(ねごろしゅう)である。
彼らは寺社と鉄砲で武装した強力な地侍集団で、かつては信長ですら手を焼いた相手だった。天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは、秀吉と敵対する徳川家康・織田信雄の側に立ち、和泉へ討って出て大坂を脅かしている。
背後を刺される危険を断つため、秀吉は紀州平定を決意する。根来寺に寺領の返上を迫って拒まれると、天正13年(1585年)三月、ついに大軍を差し向けた。
十万の大軍、紀伊へ
三月二十日、先陣をまかされた甥の羽柴秀次が大坂を発ち、翌二十一日には秀吉自身が岸和田城に入った。動員した兵は十万とも伝わる。
迎え撃つ根来・雑賀方は、泉南の城砦に九千あまりを配して防衛線を敷いた。秀吉軍は浜手と山手の二手に分かれ、国境に築かれた城を一つずつ潰していく。
千石堀城の激戦と根来寺の炎上
最初の難関が千石堀城だった。根来衆の精鋭千数百が籠もり、「鉄砲を撃つこと、平地に胡麻をまくがごとし」と評された猛射で、攻め手の秀次勢はわずか半時(約一時間)のうちに千人を超える死傷者を出したという。
それでも城内の火薬庫に火矢が引火して大爆発を起こし、千石堀城は落ちた。積善寺城や沢城も相次いで開城する。
三月二十三日、秀吉本隊が根来寺に迫った。主力を前線に出していた寺はほとんど無防備で、その夜、堂塔は炎に包まれる。大塔などを残して灰燼に帰した根来寺の焼失は、自焼説・焼き討ち説・失火説が入り混じり、今も定説がない。翌日には粉河寺も焼けた。
最後の拠点・太田城
雑賀の地も三月下旬までにあらかた制圧され、逃げ場を失った雑賀衆の残党と、地元の土豪・太田党が立てこもったのが太田城だった。
太田城は今の和歌山市太田にあった平城で、東西・南北とも二百メートルほど。深い堀と土塁、いくつもの櫓を備えた堅い構えで、党首の太田左近(宗正)以下が結束して抵抗した。
秀吉ははじめ兵糧攻めを考えたが、それでは時間がかかりすぎる。そこで選んだのが、三年前の備中高松城で成功させた「水攻め」だった。
なぜ「水攻め」だったのか
水攻めは、城のまわりをぐるりと堤で囲み、川の水を引き込んで城を孤島に変えてしまう戦法である。力ずくで攻めるより味方の損害を抑えられ、城兵の戦意もじわじわと削れる。
秀吉は天正10年(1582年)、備中高松城でこの戦法を鮮やかに決めていた。本能寺の変の報を受けて講和・撤収した、あの高松城の水攻めである。太田の地は紀の川が近くを流れ、周囲が低い — 水攻めにはうってつけの地形だった。
全長七キロの堤
三月二十八日ごろ、築堤が始まった。堤は紀の川をせき止め、城を丸ごと囲むように築かれ、その規模は全長六キロとも七キロあまり、高さ七メートルにおよんだと伝わる。
記録には「わずか五日で完成した」とあるが、これには古くから疑いも投げかけられている。現代の技術でも数か月はかかる大工事で、もともとあった氾濫よけの堤を利用したのではないか、という見方だ。数値や日数は、後世に誇張された可能性がある。
四月に入って注水が始まると、折よく降り続いた大雨が水かさを一気に押し上げた。太田城は見る間に、濁った水の中の孤島となっていく。
水の中の攻防
水攻めは、一方的な兵糧攻めではなかった。城兵は舟で堤へ近づいて夜討ちをかけ、寄せ手が差し向けた安宅船(あたけぶね)十三隻には、水にもぐって船底に穴をあけ、次々と沈めてみせた。
四月九日には、城側の決死隊が堤の一部を切り崩すことに成功する。あふれ出た水はかえって寄せ手を襲い、宇喜多秀家の陣で多くの溺死者を出した。秀吉軍は六十万個ともいう土俵を積んで、決壊した堤を必死に修復したという。
それでも水は引かない。四月二十一日には小西行長の水軍を堤の内側へ引き入れて総攻めをかけたが、城兵の鉄砲に阻まれて退いた。
太田城、開城す
兵糧も尽き、抵抗の限界がきた。四月二十二日(二十四日とも)、太田城はついに開城する。
突きつけられた条件はむごいものだった。太田左近をはじめ主だった五十三人が自害し、その首は大坂・天王寺の阿倍野にさらされた。首謀者の妻ら二十三人は磔にかけられたと、当時の書状は伝えている。
一方で、ふつうの百姓とその妻子は助命され、農具や家財を在所へ持ち帰ることが許された。ただし武器は取り上げられている — これは史料の上で確認できる、もっとも早い「刀狩」の一例だとされる。
備中高松・忍城とならぶ「日本三大水攻め」
太田城の水攻めは、備中高松城(1582年)、武蔵の忍城(1590年)とならんで「日本三大水攻め」に数えられる。三つとも、しかけた側は秀吉の陣営だった。
備中高松は毛利との対陣を有利に運ぶための水攻め、忍城は小田原征伐の一環で石田三成が指揮した水攻め、そして太田城は紀州平定の総仕上げ。秀吉が「水を武器にする」という発想を、生涯くり返し用いたことがよくわかる。
平野をまるごと水に沈めてしまうという構想の大きさ、そしてそれを実行できる動員力こそが、天下人へと駆けのぼる秀吉の恐ろしさだった。
弟・秀長と紀州平定
この戦いで秀吉を支えた副将の一人が、弟の羽柴秀長だった。派手な武功こそ兄に譲るが、平定後の紀伊一国はまるごと秀長にあたえられ、彼は一気に大大名へと駆けあがる。
秀長は粉河に藤堂高虎、田辺に杉若氏、新宮に堀内氏と、要所に有能な家臣を配し、藤堂高虎を奉行として和歌山城を築かせた。城代には桑山重晴を据えている。荒れた紀伊を治める「経営者」としての秀長の力量が、ここで試された。
2026年の大河ドラマ「豊臣兄弟!」は、まさにこの、兄を支えながら自らの領国を築いていく秀長を主人公に据えている。太田城の水攻めも、その転機の一つとして見ると、いっそう味わいが増す。
そして戦いは四国へ
紀州はこれで平定されたかに見えたが、日高の湯河直春らがなお抵抗を続け、鎮圧はしばらく長引いた。それでも、畿内の南の憂いはひとまず断たれた。
太田城が落ちてまもなく、秀吉の目は次の標的 — 四国の長宗我部元親へと向かう。そしてその四国攻めで総大将をつとめるのが、ほかならぬ弟・秀長だった。紀州から四国へ。天下統一への歩みは、休むことなく西へ進んでいく。
まとめ
太田城の水攻めは、鉄砲と信仰で武装した中世の民衆勢力が、兵農分離を進める新しい秩序に呑み込まれていく、その象徴のような戦いだった。水に沈んだのは一つの城だけではなく、寺社と地侍が割拠した時代そのものだったのかもしれない。
そして戦いのかたわらで、静かに大領を得た弟・秀長の物語が動き出す。次は、その秀長が総大将として挑む四国攻めをのぞいてみたい。
太田城の水攻めに関わったおもな武将
羽柴方(攻め手)
紀州方(守り手)
各武将の生涯や関連する合戦・事件については、姉妹サイトでもくわしく解説しています。あわせてご覧ください。→ 戦国ヒストリー(姉妹サイト)











