天正遣欧少年使節 ― 戦国日本からローマへ渡った四人の少年

天正遣欧少年使節

戦国時代の日本から、はるばるヨーロッパへと渡り、ローマ教皇に謁見した少年たちがいた。「天正遣欧少年使節(てんしょうけんおうしょうねんしせつ)」である。九州のキリシタン大名が送り出した四人の少年は、八年以上をかけて世界をめぐり、帰国した。壮大な航海と、その後の数奇な運命をたどる。

目次

キリシタン大名の企て

天正十年(1582)、九州のキリシタン大名である大友宗麟・大村純忠・有馬晴信の名代として、四人の少年がヨーロッパへ派遣された。この計画を推し進めたのは、来日していた宣教師ヴァリニャーノである。日本にキリスト教の栄えるさまをローマへ伝え、また少年たちにヨーロッパの文物を見せて日本布教に役立てようという、遠大な構想であった。

四人の少年

選ばれたのは、伊東マンショ、千々石(ちぢわ)ミゲル、原マルチノ、中浦(なかうら)ジュリアンという、いずれも十代前半の少年たちであった。彼らはキリシタン大名の縁につながる少年で、宣教師のもとで学んだ優秀な若者であった。まだ幼さの残る四人が、未知の大海原を越えて地球の裏側を目指すという、前例のない大冒険が始まった。

ローマ教皇への謁見

長い航海の末、一行は天正十三年(1585)にローマへと到達した。少年たちは、時のローマ教皇グレゴリウス十三世に謁見するという栄誉に浴した。極東の島国からやってきた少年使節は、ヨーロッパ各地で大きな歓迎を受け、行く先々で人々の関心を集めた。日本という国の存在を、遠いヨーロッパに強く印象づける出来事であった。

変わり果てた帰国

一行が帰途につき、天正十八年(1590)に日本へ戻ったとき、故国の状況は一変していた。彼らが旅立った後、豊臣秀吉がバテレン追放令(1587)を発し、キリスト教への風向きが厳しくなっていたのである。少年たちはヨーロッパの活版印刷機を持ち帰り、日本での出版に用いたが、彼らを取り巻く環境は、出発前とは大きく異なるものになっていた。

その後の四人

帰国後、四人の少年のたどった道は、それぞれに分かれていった。宣教師となって信仰を貫いた者もいれば、後に棄教した者、国外へ追放された者、そして殉教した者もいた。禁教が強まっていく時代の荒波に、四人は一人ひとり翻弄された。世界をめぐった少年たちのその後の運命は、キリシタンの世紀が終わりを迎えていく日本の歴史を、鮮やかに映し出している。

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