奈良の大仏は誰もが知るが、かつて京都にも、それをしのぐ巨大な大仏が存在したことは意外と知られていない。天下人・豊臣秀吉が発願して築いた「方広寺(ほうこうじ)の大仏」である。刀狩とも結びつき、やがて豊臣家滅亡の引き金にもなったこの大仏の、数奇な運命をたどる。
秀吉が発願した京の大仏
天下統一を成し遂げた豊臣秀吉は、その権勢を天下に示すとともに、戦乱で亡くなった人々を弔うため、京都東山に巨大な大仏の建立を発願した。造営されたのが方広寺であり、その大仏殿は、奈良・東大寺の大仏殿をもしのぐほどの壮大な規模であったと伝えられる。都の東にそびえる大伽藍は、まさに天下人の威光を体現するものであった。
刀狩と大仏
この大仏の建立は、秀吉が全国で行った刀狩とも深く結びついていた。秀吉は刀狩令において、農民から取り上げた刀や槍などの武器を、方広寺の大仏を造るための釘やかすがいに用いる、という名目を掲げた。武器を仏具に変えるというこの大義名分は、農民の武装解除への反発を和らげるとともに、大仏建立の意義を高めるものであった。信仰と政治が結びついた、巧みな演出であった。
完成と地震による倒壊
大仏は当初、木製に漆喰を施すなどして比較的短期間で造られ、秀吉の存命中に一応の完成を見た。ところが、慶長元年(1596)に近畿を襲った大地震(慶長伏見地震)によって、完成して間もない大仏は無残にも倒壊してしまった。天下人の威信をかけた大事業も、自然の猛威の前にはあまりにもろかった。秀吉はこの倒壊を大いに嘆いたと伝えられる。
秀頼による再建と鐘銘事件
秀吉の死後、その子・豊臣秀頼は、父の遺志を継いで方広寺の大仏と大仏殿の再建を進めた。そして完成した梵鐘に刻まれた銘文が、思わぬ波紋を呼ぶ。「国家安康」「君臣豊楽」という文言が、徳川家康の名を分断し豊臣を君として楽しむ意だと難癖をつけられたのである(方広寺鐘銘事件)。これが口実となって大坂の陣が起こり、豊臣家は滅亡へと追い込まれていった。
大仏のその後
方広寺の大仏は、その後も地震や火災によって倒壊と再建を繰り返し、ついに現在では失われてしまった。かつて京の東山に東大寺をしのぐ大仏がそびえていたことは、今ではほとんど忘れられている。天下人の栄華の象徴として生まれ、豊臣家滅亡の引き金ともなった方広寺の大仏の数奇な運命は、栄枯盛衰の激しかった桃山という時代を、静かに物語っている。
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