水原親憲 | 上杉家屈指の猛将。長谷堂城の戦いや大坂の陣において鉄砲隊を率い、圧倒的武勇で敵軍を粉砕

すいばら ちかのり

地域甲信越・東北
所属勢力・属性上杉家臣
大名家上杉
家紋丸に三ツ引
主武器鉄砲・太刀
衣装・甲冑漆黒重厚具足
武将タイプ「朱柄の槍」・猛将
目次

越後に生きた鉄砲の勇将

水原親憲(すいばら ちかのり、杉原親憲とも記される)は、越後の上杉家に仕え、戦国の終わりから江戸のはじめにかけて生きた武将で、とりわけ鉄砲や砲術に通じた歴戦の勇将として、その名を今に伝えている数少ない人物のひとりである。史料に恵まれないため生涯の細部には不明な点も多いが、主君・上杉景勝や名臣・直江兼続とともに歩んだ軌跡をたどれば、戦国末期から大坂の陣へと至る激動の時代を生き抜いた、一人の実直な武人の姿が今も確かに浮かびあがってくる。

主君・上杉景勝という人物

親憲が生涯を通じて仕えた上杉景勝は、軍神とまで称された上杉謙信の養子であり、謙信の急死ののちに勃発した家督争い—御館の乱を制して、名門上杉家の当主の座を継いだ、寡黙で剛毅なことで知られる、まさに戦国屈指の武将であった。やがて豊臣秀吉のもとで五大老の一人にまで列せられた景勝は、会津百二十万石という破格の大領を与えられて栄華を極めたが、秀吉の死後は次第に徳川家康と対立を深め、天下分け目の渦中へと巻き込まれていくことになる。

そうした主君の波乱に満ちた生涯に最後まで寄り添い続けた親憲もまた、上杉家の栄光と苦難のなかで幾度となく戦場に身を投じ、老いてなお衰えぬみずからの武勇と鉄砲の腕を、存分に発揮していくことになるのである。

名臣・直江兼続との関わり

上杉家の歴史を語るうえで決して欠かせないのが、景勝の片腕として家中の政務を一手に取り仕切った名宰相・直江兼続であり、その卓越した内政と外交の手腕は、四百年余りを経た今日でもなお、多くの人々から高く評価され続けている。兼続は義を何よりも重んじる人物として名高く、関ヶ原の合戦に先立っては、家康の非を堂々と鳴らした直江状を突きつけたとも伝わるなど、その気骨あふれる気概は、上杉家中の数多くの武士たちを大いに奮い立たせたのである。

親憲もまた、こうした景勝と兼続を中心とする気概あふれる上杉家中にあって、ひたすら武辺一筋の道を歩み、その確かな実力によって、いつしか家中でも屈指の重臣の一角を占めるまでになったと考えられている。

揚北衆の系譜と水原氏

親憲が出たとされる水原氏は、越後の北部—阿賀野川以北の地に割拠し、独立心のきわめて強い国人領主たちとして知られた集団、いわゆる揚北衆の流れをくむ、由緒ある名族の一つであったと伝わっている。揚北衆は、時として主家である上杉氏にも公然と反抗するほど誇り高く独立不羈の武士団であったが、やがて景勝の強い統制のもとにまとめあげられ、その卓越した勇猛さは、上杉軍を支える大きな力となっていったのである。

砲術という新しい戦い方

親憲という武将を語るうえで最大の特徴となるのは、まさに当時としてはまだ最新鋭の兵器であった鉄砲を実に巧みに操り、砲術という新しい戦いの分野で並外れた技量を存分に発揮した点にこそあると言ってよいだろう。戦国末期という時代は、鉄砲が合戦の勝敗を大きく左右する決定的な武器へと急速に変わりつつあった時期であり、その運用と戦術を知り尽くした武将の存在は、一軍にとってまさに計り知れない価値を持っていたのである。

親憲はまさにそうした新しい時代の要請に応えうる稀有な存在であり、鉄砲隊を率いて幾多の激戦の場に臨んでは、その火力を最大限に生かした巧みな戦いぶりによって、次々と目覚ましい戦功を積み重ねていったのである。

関ヶ原と長谷堂の戦い

1600年、天下の覇権をめぐって東西の大名が真っ二つに割れて激突した関ヶ原の合戦が起こると、かねて家康と鋭く対立していた上杉家は、東軍方についた出羽の最上義光の領国へと大軍をもって侵攻を開始した。この戦いで、直江兼続が率いる上杉の大軍は最上方の重要拠点である長谷堂城を包囲したものの、城兵の頑強な抵抗にあって攻めあぐね、やがて関ヶ原での西軍敗北の報が届くと、苦しい撤退を強いられることになった。

この長谷堂の戦いにおける鬼気迫る殿軍の奮戦は、後世まで上杉家の武名を大いに高めることとなったが、親憲もまた、こうした一連の激しい戦いのなかで得意の鉄砲を駆使し、上杉軍を陰から支える働きを見せたと伝わっている。

会津から米沢へ、上杉家の苦難

関ヶ原の戦いで西軍に与した上杉家は、戦後に勝者となった家康から厳しい処分を受け、会津百二十万石から出羽米沢三十万石へと、実に四分の一にまで所領を大きく削減されるという未曾有の苦難を味わうことになった。それでも禄が大幅に減ったなかで多くの家臣を召し放たず、藩をあげて質素倹約に努めながら再建を目指した上杉家にあって、すでに老境にあった親憲もまた、変わらぬ忠義を尽くし続けたと考えられている。

大坂の陣・鴫野の戦いでの奮戦

1614年、徳川方と豊臣方がついに激突した大坂冬の陣が起こると、上杉家は徳川方に属して大坂へと参陣し、すでに高齢に達していた親憲も、みずから鉄砲隊を率いて勇んで戦場へと出陣することとなった。この冬の陣における激戦—鴫野の戦いで、親憲の率いる上杉軍は攻め寄せる豊臣方の大軍と激しく渡り合い、鉄砲を実に効果的に用いて敵を撃退し、老将とはとても思えぬ目覚ましい戦功を挙げたと伝わっている。

すでに七十歳を超えていたとも言われる高齢の身でありながら、なお最前線に立って采配を振るい、鉄砲隊を巧みに指揮してみせたその不屈の姿は、まさに歴戦の勇将の名にふさわしいものであったと言えよう。

感状を笑い飛ばした逸話

この鴫野の戦いでの目覚ましい武功に対し、幕府から立派な感状が与えられた際、親憲はこれを「子どもの石合戦のようなものに、これほど大層な感状をいただくとは」と豪快に笑い飛ばしたと伝わっている。真偽のほどは定かでないものの、この逸話は、数々の実戦をくぐり抜けてきた老将ならではの豪胆さと、名誉や恩賞に恬淡としていた武人らしい気風とをよく物語るものとして、今なお人々に語り継がれている。

後世に伝わる水原親憲の姿

親憲は大坂の陣ののちまもなくして世を去ったとされ、その生涯を詳しく伝える史料は決して多くはないものの、上杉家の武を支え続けた鉄砲の名手として、確かにその名を歴史に刻んでいるのである。主君・景勝や名臣・兼続とともに戦国の激動を駆け抜け、新しい兵器を手に老いてなお奮い立った親憲の姿は、戦国から泰平へと移りゆく時代の転換を体現する一人の武将として、今日でも私たちの心を惹きつけてやまない。

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