戦国時代の日本には、南蛮貿易とともにキリスト教が伝わり、西国を中心に多くの信者(キリシタン)が生まれていた。天下統一を進める豊臣秀吉は、当初この新しい信仰に寛容であったが、あるとき突如として宣教師の追放を命じる。「バテレン追放令」である。天下人とキリシタンの緊張をはらんだ関係を、この法令を軸にたどる。
キリシタンの広がり
戦国時代の半ば、来日した宣教師フランシスコ・ザビエルらによって日本にキリスト教が伝えられた。南蛮貿易による鉄砲や珍しい品々への関心ともあいまって、キリスト教は西国を中心に急速に広まり、大名のなかにも洗礼を受ける者(キリシタン大名)が現れた。長崎などの港町は、南蛮貿易とキリスト教の一大拠点として栄えた。信仰は、貿易の利と分かちがたく結びついていた。
九州平定と秀吉の警戒
天正十五年(1587)、秀吉は九州を平定し、島津氏を降した。この九州でのできごとを通じて、秀吉はキリシタンの勢力の大きさを目の当たりにする。宣教師の影響力、キリシタン大名による寺社の破壊、そして長崎が教会領のようになっていた状況などが、天下人の警戒を呼んだと伝えられる。一つの信仰が大名や領民を強く結びつける力は、天下を統べる秀吉にとって看過できないものであった。
バテレン追放令の発布
天正十五年(1587)、九州平定の帰路、秀吉は突如として「バテレン追放令」を発した。バテレンとは宣教師(パードレ)のことである。この法令は、宣教師に国外退去を命じ、大名が許可なくキリシタンになることを禁じるものであった。ただちに前触れもない発令は、キリシタン勢力への秀吉の強い警戒心の表れであった。
徹底されなかった追放
もっとも、このバテレン追放令は、必ずしも厳格に実行されたわけではなかった。秀吉は、莫大な利益をもたらす南蛮貿易そのものは維持したいと考えており、貿易と一体であった宣教師の活動を完全に断つことは難しかった。そのため、宣教師の多くは国内にとどまり、布教も水面下で続けられた。信仰の禁圧と貿易の利という、相反する事情の間で、法令の運用は揺れ動いたのである。
禁教への流れ
バテレン追放令は徹底されなかったものの、天下人がキリスト教を公然と警戒し、禁圧の姿勢を示したことの意味は大きかった。やがて慶長元年(1596)には、長崎で二十六人のキリシタンが処刑される事件(日本二十六聖人)も起こる。秀吉が敷いたこの禁教の路線は、続く徳川政権に受け継がれ、やがて厳しい禁教と鎖国の時代へとつながっていった。バテレン追放令は、その大きな流れの起点となった法令であった。
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