つがる のぶひら
| 地域 | 東北 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 津軽氏・弘前藩2代藩主 |
| 大名家 | 津軽氏 |
| 家紋 | 津軽牡丹 |
| 主武器 | 刀 |
| 衣装・甲冑 | 甲冑に陣羽織 |
| 武将タイプ | 堅実な藩主 |
津軽信枚とは
津軽信枚とは、津軽地方を統一した津軽為信の子で、弘前藩の2代藩主として藩政の基礎を固め、名城弘前城を築き上げた武将である。激動の時代に家名を守り抜いた、堅実な統治者であった。天正14年(1586年)、津軽為信の三男として生まれた。父為信は南部氏から自立して津軽一円を平定し、豊臣秀吉に所領を認められて、陸奥の北端に新たな大名家を一代で築き上げた立志の人であった。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、津軽家の去就も揺れた。一説に父為信は東軍に、兄信建は西軍に身を投じたと伝わり、家の存続をはかって双方に賭ける形となったともいわれている。慶長12年(1607年)、父為信と兄信建が相次いで世を去り、信枚が家督を継いだ。しかし翌年、兄の遺児熊千代を推す一派が反発し、跡目をめぐる争いが起きて、津軽家は取り潰しの危機に直面した。
信枚は江戸幕府との結びつきを頼みとし、幕閣に働きかけてこの内紛を乗り切った。改易の危機を退けた彼は、以後、徳川の世に順応しながら藩の体制を整えることに力を注いでいったのである。慶長14年(1609年)、信枚は幕府の許しを得て弘前城の築城に着手した。北辺の守りを重んじる幕府の意向もあり、5万石に満たぬ小藩ながら、五層の壮麗な天守を備えた堅固な城が短期間で完成した。この弘前城は津軽家の新たな本拠となり、城を中心に城下町が整えられていった。以後、弘前は津軽一円の政治と経済の中心地として栄え、幕末に至るまで津軽家の統治を支える要となり続けた。信枚の正室をめぐる縁もまた、時代を映していた。はじめ石田三成の娘辰姫を妻としたが、のちに徳川家康の養女満天姫を正室に迎え、辰姫は側室となった。二人はそれぞれに男子をもうけている。家督を継いだのは辰姫の産んだ長男信義であった。
西軍の将石田三成の血を引く者が徳川の世に大名家を継いだことは、敵味方の垣根を越えて家名をつないだ津軽家の数奇な来歴を物語っている。慶長19年(1614年)からの大坂の陣では徳川方として出陣したが、家康の命により江戸の警固に回された。北の大名として、信枚は幕府への忠勤を重ねながら、藩の安泰をはかっていったのである。信枚の治世には、江戸などから流されたキリシタンが津軽の地へ送られたとも伝わる。幕府の禁教政策が強まる中、北辺の藩もまた、信仰の取り締まりという難しい問題に向き合うこととなった。信枚は天台宗の高僧天海に深く帰依し、領内に寺院を建てるなど信仰にも厚かったと伝わる。寛永8年(1631年)、江戸で48年の生涯を閉じ、父が興し彼が固めた弘前藩は近世を通じて津軽の地に続いた。
親族・主従・ライバル ― 人物相関
信枚の出発点には、津軽を一代で切り取った父為信の存在があった。南部氏から自立して大名の地位を築いた為信の遺産を受け継ぐことは、信枚にとって誇りであると同時に、重い責務でもあったといえる。その相続の陰には、兄信建との確執がうかがえる。関ヶ原で兄弟が東西に分かれたとも伝わり、父と兄の死後に起きた跡目争いでは、兄の遺児を推す一派と対立して、津軽家は分裂の危機に立たされた。
信枚の縁組は、敵味方の血を一身に集める数奇なものであった。はじめ石田三成の娘辰姫を妻とし、のちに徳川家康の養女満天姫を正室に迎えたのである。西軍と東軍、二つの血を津軽家に引き入れる二重の縁であった。この二重の縁は、跡継ぎの上にも影を落とした。家督を継いだのは辰姫の産んだ長男信義であり、西軍の将三成の血を引く者が徳川の世に大名家を継いだことは、時代の転変を映す縁として語り継がれている。
信枚の精神を支えたのが、天台宗の高僧天海への深い帰依であった。幕府に重んじられた天海との結びつきは、家督争いを乗り切る後ろ盾ともなり、信枚は領内に寺院を建てるなど、その信仰を政にも生かしていった。
逸話・エピソード
弘前城の築城は、信枚の治世を象徴する大事業であった。5万石に満たぬ小藩でありながら、五層の壮麗な天守を短期間で築き上げた背景には、北辺の守りを重んじる幕府の思惑もあったと伝わっている。この城は津軽家の新たな本拠となり、城下には町が整えられていった。父為信が切り取った土地に信枚が城を据えたことで、弘前は津軽一円の中心地として花開き、幕末まで続く藩の礎が確かに定まったのである。敵味方の血をつないだ家督相続は、津軽家の来歴の中でもとりわけ物語性に富む。
三成の娘と家康の養女、二人の女性を妻に迎えた信枚の選択が、後の世まで続く津軽家の血筋を形づくったと伝えられている。信枚の治世には、江戸などから流されたキリシタンが津軽の地へ送られたとも伝わる。北辺の藩もまた禁教の波と無縁ではいられず、遠い都の政策が最果ての地に影を落とした時代であったことを物語っている。

