はせくら つねなが
| 地域 | 東北 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 伊達家臣(仙台藩士) |
| 大名家 | 伊達氏 |
| 家紋 | 逆卍に違い矢 |
| 主武器 | 刀・槍 |
| 衣装・甲冑 | 甲冑・南蛮風の礼装 |
| 武将タイプ | 外交・使節 |
支倉常長とは
支倉常長は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての仙台藩士で、伊達政宗の命を受け、慶長遣欧使節の代表として海を渡った人物です。日本人として初めてイスパニアやローマの地を踏んだ武士の一人として、その名を歴史に刻みました。生まれは1571年ごろとされます。父は山口常成といい、桓武平氏の流れをくむ家柄でした。のちに伯父にあたる支倉時正の養子となり、支倉の家名を継ぎます。陸奥の地に根を張る、伊達家に仕える武士の家に育ちました。養父の時正に実子が生まれたため、政宗の意向により家禄1200石は二分され、常長は600石を領する身となりました。若いころには朝鮮への出兵にも加わったと伝えられ、武人としての務めを果たしていました。転機は、政宗が壮大な構想を抱いたことにあります。政宗は領内での貿易の振興と、宣教師を介した西欧との結びつきを求め、遠くイスパニアやローマへ使節を送ることを決めました。その大役を託されたのが常長でした。使節団は宣教師のルイス・ソテロを案内役とし、1613年10月、陸奥の月ノ浦から出帆しました。
乗り込んだのは、領内で建造された大型帆船サン・ファン・バウティスタ号です。総勢百数十名にのぼる一行が、大海原へ乗り出しました。一行はまず太平洋を横断し、当時イスパニア領であったメキシコのアカプルコに到着します。陸路で大陸を越え、大西洋を渡って、翌年ようやくイスパニア本国の地を踏みました。一年以上に及ぶ、苦難の長い航海でした。1615年、常長はイスパニア国王フェリペ3世に謁見しました。滞在中の首都マドリードで洗礼を受け、ドン・フェリペ・フランシスコという洗礼名を授かります。異国の宮廷での謁見は、東北の武士にとって前例のない出来事でした。さらに一行はイタリアへ進み、同じ年、ローマ教皇パウロ5世に謁見しました。常長はローマ市から市民権と貴族の位を認める証書を与えられ、盛大な歓迎を受けます。使節の格式の高さを、西欧の人々に強く印象づけました。しかし、肝心の通商交渉は思うように進みませんでした。すでに日本国内ではキリスト教への締めつけが強まりつつあり、その報せが西欧にも伝わっていたためです。
政宗が望んだ貿易の約束を得ることは、ついにかないませんでした。常長が長い旅を終えて帰国したのは1620年のことでした。出発から実に7年の歳月が流れていました。しかし帰り着いた日本では、幕府による禁教令がすでに敷かれており、キリスト教徒を取り巻く情勢は大きく変わっていました。西欧の栄誉を身にまとって戻った常長でしたが、時代の変化のなかで思うような立場を得られず、帰国の2年後の1622年、失意のうちにこの世を去ったと伝えられます。晩年の様子や信仰を捨てたかどうかについては、史料によって記述が分かれ、はっきりとは定まっていません。常長の壮大な旅は、長く歴史のなかに埋もれていましたが、後世に再び光を当てられました。彼が持ち帰った肖像画や書状などの品々は、日本と西欧の交流を今に伝える貴重な文化遺産として、高く評価されています。
親族・主従・ライバル ― 人物相関
支倉常長の生涯を決定づけたのは、主君・伊達政宗との主従関係でした。政宗は領内の貿易振興と西欧との結びつきを求めて遠く海外へ使節を送る決断をし、その前例のない大役の代表として、家臣である常長を選び抜いたのです。常長にとってこの命は、一介の武士の枠を超えた重い使命でした。常長の出自をたどると、実の父は山口常成という武士でした。桓武平氏の流れをくむ家柄に生まれた常長は、のちに伯父にあたる支倉時正の養子となり、支倉の家名を継ぎます。
血のつながりと養子縁組が重なり合うなかで、彼は伊達家に仕える武士としての立場を得ていきました。養父・時正にのちに実子が生まれたことで、常長の身の上には変化が生じます。政宗の裁定により、家禄1200石は二つに分けられ、常長は600石を領する身となりました。家の事情と主君の意向が、彼の立場を細やかに規定していたことがうかがえます。遠い異国への旅路で、常長と行動をともにしたのが宣教師のルイス・ソテロでした。ソテロは案内役であると同時に、言葉や交渉の面で使節を支える重要な同行者であり、イスパニアやローマでの謁見も彼の働きなしには成り立ちませんでした。
二人は苦楽をともにする間柄でした。常長が身を捧げた伊達政宗という主君は、東北に一大勢力を築いた野心的な大名でした。その壮大な構想の一端を担わされた常長の旅は、政宗個人の夢と、時代の大きなうねりとが交錯する場に置かれていたといえます。主従の絆が、彼を地の果てまで駆り立てたのです。
逸話・エピソード
1615年、常長はイスパニア国王フェリペ3世の前に進み出て謁見を果たしました。滞在中の首都マドリードでは洗礼を受け、ドン・フェリペ・フランシスコという洗礼名を授かったと伝わります。東北の一武士が異国の宮廷で王に見えるという出来事は、まさに前代未聞のことでした。さらに常長はイタリアへ渡り、ローマ教皇パウロ5世にも謁見しました。このときローマ市から市民権と貴族の位を認める証書を与えられ、盛大な歓迎を受けたと伝わります。
使節一行の姿は、西欧の人々の目に強い印象を残しました。しかし、華やかな栄誉とはうらはらに、肝心の通商交渉は実を結びませんでした。すでに日本国内でキリスト教への締めつけが強まっているとの報せが西欧に届いており、望んだ約束を得ることはついにかなわなかったと伝わります。7年に及ぶ旅を終え、常長が帰国したのは1620年のことでした。だが待っていたのは、禁教令の敷かれた変わり果てた故国でした。
西欧の栄誉を身にまとって戻った常長は、時代の激変のなかで報われることなく、帰国の2年後に失意のうちに世を去ったと伝わります。その晩年や、信仰を捨てたか否かについては、史料によって記述が分かれており、確かなことははっきりしていません。壮大な旅の栄光と、帰国後の悲劇との落差は、時代に翻弄された一人の武士の運命を、静かに物語っています。

