最上義守 | 最上飛躍の礎を築いた父

最上義守

もがみ よしもり

地域東北
所属勢力・属性最上氏第10代当主
大名家最上氏
家紋二つ引両
主武器太刀・采配
衣装・甲冑黒糸威の当世具足に陣羽織
武将タイプ外交・守成型
目次

最上義守とは

最上義守は、出羽国山形を本拠として村山地方に勢力を張った戦国大名で、名門最上氏の第10代当主にあたる人物である。奥羽随一の智将と評される最上義光の父であり、伊達政宗の外祖父としても系譜に名をとどめる。強大な伊達氏の影を受けながらも、乱世の出羽にあって家の存続と自立に力を注いだ当主であった。最上氏は足利一門斯波氏の流れをくむ名族で、室町幕府から屋形号を許された家柄と伝わる。義守自身はその庶流である中野氏の出で、中野義清の子として大永元年(1521年)に生まれたとされる。やがて宗家の家督を継いで当主となり、山形城を本拠に村山一帯の国衆をまとめる立場に立った。当時の最上氏を取り巻く情勢は厳しく、南には強勢を誇る伊達氏がそびえ、最上氏は事実上その影響下に置かれる場面も少なくなかった。義守は周辺の国衆との折衝を粘り強く重ねながら、宗家としての独立性をいかに保つかに腐心し続けたと考えられている。信仰の面でも足跡を残し、天文年間には兵火で荒廃していた立石寺の復興に尽力したと伝わる。比叡山延暦寺から分灯を迎えて法灯を再興したとされ、領内の寺社を手厚く保護する姿勢は、領民の信望を集めると同時に、当主としての権威を高める働きも担った。外交では中央との結びつきを重んじ、室町幕府の将軍足利義輝との関係を築いたと伝わる。

また娘の義姫を伊達輝宗のもとへ嫁がせ、この縁組から後の独眼竜こと伊達政宗が生まれた。最上と伊達を結ぶこの血縁は、以後の東北の政局に長く複雑な影を落としていくことになる。伊達氏との関係は決して一様ではなく、伊達家中を二分した天文の乱に際しては、周辺勢力の動きを見極めながら慎重に態度を定めたとされる。強大な隣国とどう間合いを取るかは、出羽の中小勢力にとって家の命運を左右する難題であり、義守もまた終始その舵取りに追われた。やがて成長した嫡男義光との間に、家督をめぐる深刻な確執が芽生える。一説には義守が次男を寵愛して義光を疎んじたとも語られるが、史料の上では不確かな点も多い。むしろ当主権の継承や家中の主導権をめぐる対立が、父子の不和の底流にあったとみるのが穏当であろう。元亀年間には家督が嫡男義光へと移り、義守は剃髪して栄林と号したと伝わる。しかし両者の溝はその後も埋まらず、天正2年(1574年)には再び武力衝突へと発展した。これは後世に天正最上の乱と称される争乱で、最上家中を二分する大きな内訌となった。この内乱では、独立の姿勢を強める義光を抑えようとした伊達輝宗が、義守を支援する名目で出羽へと兵を進めた。周辺の国衆も両陣営に分かれて激しく争ったが、義光は敵対勢力を各個に破って優位を築き、やがて義光に有利なかたちで和議が結ばれたと伝わっている。

和睦ののち、義守は家督争いの表舞台から退き、菩提寺に隠棲して静かな晩年を送ったとされる。結果として最上宗家の実権は義光の手に固まり、これ以降に本格化する最上氏躍進の土台が、皮肉にも父子相克を経て整えられていくことになった。義守は天正18年(1590年)にこの世を去ったと伝わり、享年は70ほどであったとされる。父子の争いという不名誉な逸話とともに語られがちな人物だが、動乱の出羽で家名を保ち、次代へと確かに橋渡しをした当主としての功績は、決して小さいものではない。その後、子の義光は出羽で大きく版図を広げて最上氏の全盛期を築き上げ、娘義姫の血を引く政宗は奥州の覇者へと駆け上がった。義守はこの二人の傑物を系譜の上でつなぐ位置に立ち、まさに東北戦国史の一つの結節点というべき役回りを担った人物であった。派手な武功や逸話にこそ乏しいものの、隣接する大国のはざまで宗家を守り抜き、次代の飛躍へと道筋をつけた義守の歩みは、地味ながらも確かな重みを持つ。表舞台の英雄を陰で支えた、いぶし銀のような当主として記憶されるべき存在といえるだろう。

親族・主従・ライバル ― 人物相関

義守を語るうえで欠かせないのが、嫡男である最上義光との関係である。父子は当初から折り合いが悪く、家督と家中の主導権をめぐって次第に鋭く対立していった。一説には義守が次男を寵愛して義光を遠ざけたとも伝わるが、真相は定かでなく、やがてこの父子相克は天正最上の乱と呼ばれる大きな内訌へと発展することになる。娘の義姫の存在も、義守の立場を大きく特徴づけている。義姫は南の大国伊達氏の当主輝宗のもとへ嫁ぎ、両家を結ぶ要となった。そして二人の間に生まれたのが、後に奥州の覇者となる伊達政宗である。

義守はその外祖父にあたり、最上と伊達という宿命のライバル同士が、血縁の上では深く結ばれていたことを物語る。その伊達輝宗は、義守と義光の争いにも深く関わった。独立の姿勢を強める義光を警戒した輝宗は、義守を支援するという名目で天正最上の乱に介入し、出羽へと兵を進めたと伝わる。義父にあたる義守と、その子義光の内紛に義理の縁で加わるという、複雑な人間関係がそこには絡み合っていた。また義守は、足利一門斯波氏の流れをくむ名門最上氏の当主という立場にあった。

室町幕府から屋形号を許された家格の高さは、村山地方の国衆をまとめるうえで大きな権威となり、周辺勢力との交渉においても無視しがたい重みを持っていた。こうしてみると、義守は子の義光、娘婿の輝宗、孫の政宗という東北の主役たちを一身に結び合わせる位置に立っていたことがわかる。その存在は、最上と伊達をめぐる人間模様の結び目そのものであったといえる。

逸話・エピソード

義守の名を後世に強く印象づけたのが、天正最上の乱である。家督を譲ったはずの義守と子の義光が再び衝突し、そこへ伊達輝宗までもが加わって、最上家中は真っ二つに割れたと伝わる。しかし義光は敵対する勢力を各個に破って優位を築き、最後は義光に有利なかたちで和議が結ばれたとされる。武の争いだけでなく、義守には信仰にまつわる逸話も残る。兵火で荒れ果てていた名刹立石寺の復興に力を尽くし、比叡山延暦寺から分灯を迎えて法灯を再びともしたと伝わる。

乱世にあって寺社を守り再興する姿は、当主としての徳を示すものとして語り継がれている。父子の争いという苦い逸話で知られる義守だが、その和睦の後は表舞台から静かに退いたとされる。皮肉にも、この相克を経て最上宗家の実権は義光の手に固まり、後の躍進の土台が整えられたと伝わる点は、乱世の巡り合わせの妙を感じさせる。

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