岩城常隆 | 佐竹と結び豊臣に臣従した磐城の当主

岩城常隆

いわき つねたか

地域東北
所属勢力・属性岩城氏当主
大名家岩城氏
家紋連子に月
主武器太刀・采配
衣装・甲冑具足・陣羽織
武将タイプ軍事・従属外交
目次

岩城常隆とは

岩城常隆は、親隆の子として生まれ、豊臣政権が奥州にまで及ぶ激動の時代に岩城氏を率いた当主である。伊達と佐竹の血を引く立場から、両者のはざまで難しい選択を迫られ続けた磐城の大名として知られる。常隆は永禄10年(1567年)ごろに生まれたと伝わる。父親隆が病に倒れて当主の務めを果たせなくなったため、母の桂樹院と、母方の伯父にあたる佐竹義重の後見のもとで養育されたとされている。天正6年(1578年)ごろ、常隆は岩城氏の当主となった。まだ年若い当主であり、後見役である佐竹義重の影響力は大きく、岩城氏は佐竹氏と深く結びついた勢力として南奥州の情勢に臨むことになった。当主となった当初、常隆は伊達氏との縁戚関係から、伊達方に融和的な姿勢を見せていたと伝わる。祖母久保姫を通じた伊達との血のつながりは、この時期の岩城氏の立ち位置を左右する要素であった。しかし天正7年(1579年)、伊達政宗の正室に田村氏の愛姫が迎えられると、田村氏と対立していた岩城氏の立場は変化する。

常隆は再び佐竹氏寄りの姿勢を強め、反伊達の陣営の一角に身を置くようになった。以後、常隆は佐竹義重らとともに、勢いを増す伊達政宗に対抗していく。天正13年(1585年)の人取橋の戦いでは、佐竹・蘆名らの連合勢とともに政宗と戦い、南奥州の諸勢力による包囲網の一翼を担ったと伝わる。その後も、二本松城への援軍や郡山をめぐる合戦など、岩城氏は反伊達の連合の中で軍を動かした。ただし郡山の合戦では、相馬義胤の動きに反発して中立に転じたとも伝えられ、境目の家ならではの複雑な事情がうかがえる。こうした地方勢力の争いに大きな転機をもたらしたのが、天下統一を進める豊臣秀吉の存在であった。関東の北条氏を攻める小田原征伐が起こると、南奥州の大名たちも去就を厳しく問われることになった。常隆は秀吉のもとに参陣することを選び、これによって所領を安堵されたと伝わる。中央の巨大な力の前に、境目の大名として家を保つには、いち早く新たな支配者へ臣従の意を示すことが不可欠だったのである。

ところがその直後、常隆は病に倒れ、天正18年(1590年)、相模国の座間の地で世を去ったと伝わる。享年は24とされ、家の前途を託されるべき若き当主のあまりに早い死であった。亡骸は心岩寺に葬られたという。常隆には幼い実子の政隆がいたが、あとを継いだのは佐竹義重の三男・貞隆であった。貞隆が養嗣子として岩城氏を継承し、政隆は伊達氏のもとへ逃れたと伝わり、岩城氏は名実ともに佐竹氏と一体の家となっていった。婚姻と養子を通じて伊達・佐竹と結んできた岩城氏が、やがて佐竹の血を引く当主を戴くに至る流れの中に、常隆の生涯は位置づけられる。天下統一の大波に呑まれた境目の若き当主として、その名は磐城の歴史に刻まれている。

親族・主従・ライバル ― 人物相関

岩城常隆は、親隆と佐竹義昭の娘・桂樹院との間に生まれた子であった。父方から伊達の血を、母方から佐竹の血を引く立場は、両者のはざまで揺れ続けた岩城氏の運命をそのまま体現するものであった。父・親隆が病に倒れたため、常隆は母・桂樹院と、母方の伯父にあたる佐竹義重の後見のもとで育てられたと伝わる。天正6年(1578年)ごろに若くして当主となったが、後見役である義重の影響力は大きく、岩城氏は佐竹氏と深く結びついた。

当初、常隆は祖母・久保姫を通じた伊達との縁から、伊達方に融和的であったと伝わる。ところが天正7年(1579年)、伊達政宗の正室に田村氏の愛姫が迎えられると、田村氏と対立する岩城氏の立場は変わり、常隆は再び佐竹氏寄りへと転じた。以後、常隆は佐竹義重や蘆名氏らとともに、勢いを増す伊達政宗に対抗する陣営の一角を占めた。天正13年(1585年)の人取橋の戦いをはじめ、二本松や郡山をめぐる合戦にも加わり、反伊達の連合の中で軍を動かしたと伝わる。

ただし常隆の立ち回りは一様ではなかった。郡山の合戦では、味方であるはずの相馬義胤の動きに反発して中立に転じたとも伝えられ、伊達・佐竹・相馬・田村が入り乱れる南奥州で、境目の家がいかに難しい判断を迫られたかがうかがえる。

逸話・エピソード

常隆は永禄10年(1567年)ごろに生まれたと伝わる。父が病に倒れ、母・桂樹院と伯父・佐竹義重に支えられて育った若き当主は、地方の争いを超える大きな波に立ち向かうことになった。その波とは、天下統一を進める豊臣秀吉の力であった。関東の北条氏を攻める小田原征伐が起こると、南奥州の大名たちも去就を厳しく問われ、常隆は秀吉のもとへ参陣することを選び、これによって所領を安堵されたと伝わる。

ところがその直後、常隆は病に倒れ、天正18年(1590年)、相模国の座間の地で世を去ったと伝わる。享年は24とされ、家の前途を託されるべき若き当主のあまりに早い死であった。亡骸は心岩寺に葬られたという。常隆には幼い実子・政隆がいたが、あとを継いだのは佐竹義重の三男・貞隆であった。貞隆が養嗣子として岩城氏を継承し、政隆は伊達氏のもとへ逃れたと伝わる。

ここに岩城氏は、名実ともに佐竹氏と一体の家となっていった。婚姻と養子を通じて伊達・佐竹と結んできた岩城氏が、やがて佐竹の血を引く当主を戴くに至る。その大きな流れの結び目に、天下統一の波に呑まれた若き当主・常隆の生涯は位置づけられている。

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