織田信雄——「無能」と呼ばれる次男の実像|小牧・長久手と単独講和の真相

2026年のNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」で、その言動に厳しい声が相次いでいる人物がいます。織田信雄(おだ のぶかつ)——織田信長の次男です。「無能」「ポンコツ」とまで評されることもある信雄ですが、はたして本当にそうだったのでしょうか。彼の生涯を史実にもとづいて追い、その実像に迫ります。

目次

信長の次男・織田信雄

織田信雄は、天下統一を目前にした織田信長の次男として生まれました。若くして伊勢の名門・北畠氏の養子となり、北畠信雄を名乗ります。しかし、父・信長に無断で伊賀へ攻め込んで大敗を喫し(第一次天正伊賀の乱)、信長から厳しく叱責されるなど、若い頃からその軽率さを指摘されることがありました。父の偉大さと比べられる、難しい立場でもあったのです。

本能寺の変と後継争い

天正10年(1582年)、本能寺の変で父・信長と、後継者であった兄・信忠が同時に世を去ります。これによって、次男の信雄と三男の信孝が、織田家の主導権をめぐって対立することになりました。

清須会議では、羽柴秀吉が推す嫡孫・三法師が家督を継ぎ、信雄は尾張などを得ます。秀吉は、この信雄を擁して、信孝や柴田勝家を退けていきました。信雄は、秀吉の天下取りに利用される形で、政局の中心に置かれたのです。

小牧・長久手の戦い

やがて秀吉が急速に力を伸ばすと、信雄は自らの立場に危機感を抱きます。天正12年(1584年)、信雄は、秀吉に内通したとして自らの家老三人を誅殺しました。これが開戦の口実となり、信雄は徳川家康と手を結んで、秀吉との全面対決に踏み切ります。世に言う小牧・長久手の戦いです。

この戦いでは、家康が長久手で秀吉方に局地的な勝利を収めるなど、徳川・織田連合軍が善戦しました。しかし、戦線は次第に膠着し、決着のつかない長期戦の様相を呈していきます。(合戦の経緯は「小牧・長久手の戦いをわかりやすく解説」でくわしく紹介しています。)

家康に無断の単独講和

膠着した戦況のなか、信雄は思わぬ行動に出ます。同盟者である家康に相談することなく、秀吉と単独で講和を結んでしまったのです。名目上の主役である信雄が矛を収めてしまったことで、家康は「信雄を助ける」という戦う大義名分を失い、撤退を余儀なくされました。

冒頭の画は、燃える陣所を背に、秀吉の本陣へ講和の使者が書状を差し出す場面のイメージです。この身勝手な単独講和によって、命がけで戦った家康をいわば「はしごから外す」形になったことこそ、信雄が「無能」「頼りない」と評される最大の理由となっています。

臣従、改易、そして生き残り

その後、信雄は秀吉に臣従します。しかし天正18年(1590年)の小田原征伐ののち、先祖伝来の尾張などを離れて家康の旧領へ移るよう命じられると、これを拒否したため、秀吉の怒りを買って改易され、流罪の身となってしまいました。ここでも、時勢を読み違えたと評されます。

それでも信雄は、のちに許されて豊臣家に近侍し、大坂の陣を経て、最終的には大和宇陀松山・上野小幡などを領する大名として家名を保ちました。父・信長の子として、兄・信忠、弟・信孝がいずれも非業の死を遂げるなか、信雄は兄弟のなかで最も長く生き抜いたのです。

「無能」か——信雄の実像

軍略や政略において、信雄が父・信長のような非凡さを欠いていたことは否めないでしょう。単独講和や転封拒否など、その場その場の判断が周囲を振り回した面も確かにあります。一方で、信雄には茶の湯や能楽といった文化面の素養があり、この道では一定の評価を受けています。

また、名だたる武将が次々と滅びていった激動の時代を生き延び、子孫を大名として明治まで存続させたという事実は、見方を変えれば、乱世を泳ぎ切った一種のしたたかさとも言えます。「無能」という一言だけでは割り切れない——それが織田信雄という人物の、複雑な実像なのかもしれません。大河ドラマ「豊臣兄弟!」で、彼がどのように描かれていくのか、注目したいところです。

各武将の生涯や関連する合戦・事件については、姉妹サイトでもくわしく解説しています。あわせてご覧ください。→ 戦国ヒストリー(姉妹サイト)

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