山崎の戦い——天王山、豊臣兄弟が主君の仇を討った天下分け目の初戦

山崎の戦い・天王山のふもとの合戦

2026年のNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」——本能寺の変と中国大返しに続く、豊臣兄弟の天下取りの「初戦」が、この山崎の戦い(やまざきのたたかい)です。主君・織田信長を討った明智光秀を、羽柴秀吉が討ち果たした一戦。勝負を分けた「天王山」の名は、いまも大一番の代名詞として使われています。この記事では、天下分け目の初戦・山崎の戦いを、史実にもとづいて追っていきます。

目次

秀吉、ついに光秀に追いつく

本能寺の変からわずか十日あまり。中国大返しで備中から驚異的な速さで戻ってきた秀吉は、摂津で味方の諸将を糾合し、京の南西・山崎(現在の京都府大山崎町のあたり、山城と摂津の境)で明智光秀の軍と対峙します。天正10年(1582年)6月13日のことでした。

主君の仇を、誰よりも早く討つ——その大義名分と勢いを、秀吉は完全に握っていました。逆に光秀は、頼みとしていた縁戚や諸将の協力を得られず、孤立したまま迎え撃つことになります。

両軍の布陣と兵力

両軍の兵力差は歴然としていました。秀吉軍はおよそ4万にまで膨れ上がっていたのに対し、光秀軍は1万6千ほど。数の上ですでに大きく水をあけられていたのです。

戦場となったのは、北に天王山がそびえ、南に淀川が流れる、狭くくびれた地形でした。両軍は、あいだを流れる円明寺川(現在の小泉川)を挟んで布陣します。狭い戦場では大軍が一度に展開しにくい反面、要地を押さえた側が有利になります。その要地こそが、戦場を見下ろす天王山でした。

天王山の争奪と、先鋒の激突

戦いの口火を切ったのは、この天王山をめぐる争奪でした。秀吉方の中川清秀・高山右近・池田恒興といった先鋒の諸将が、山の斜面や川沿いで明智勢と激しくぶつかり合います。冒頭の画のように、旗指物を林立させた両軍が、山の際でせめぎ合う——それが山崎の合戦の光景でした。

「天王山」が今日でも「勝負の分かれ目」を意味する言葉として使われるのは、まさにこの一戦に由来します。要地を確保しようとする攻防が、そのまま勝敗の帰趨を握っていたのです。

池田恒興の側面攻撃と、決着

勝敗を決定づけたのは、秀吉方の池田恒興らの部隊による側面攻撃でした。淀川沿いを渡って明智軍の横腹を突いたこの動きにより、数で劣り、地形にも押し込まれていた光秀軍は総崩れとなります。伝えられるところでは、合戦の勝負はわずか数時間でついたといいます。圧倒的な兵力と勢い、そして的確な用兵の前に、光秀の反撃は届きませんでした。

光秀の敗走と「三日天下」

敗れた光秀は、いったん勝竜寺城に退いたのち、居城の坂本城を目指して落ちのびようとします。しかしその途中、山科の小栗栖(おぐるす)で落ち武者狩りにあい、あえない最期を遂げました。

信長を討ってからわずか十数日。天下に手をかけたかに見えた光秀の栄華は、あまりにも短く終わりました。これが世に言う「三日天下」です。そして主君の仇を最も早く討った秀吉は、この勝利によって、織田家の後継争いにおいて決定的な発言力を手にすることになります。

弟・秀長の奮戦と、清須会議へ

この山崎の戦いにも、弟の秀長は兄とともに加わっていました。大返しの疲れも見せず主君の仇討ちに臨んだ豊臣兄弟にとって、この勝利は、天下取りへの確かな第一歩となりました。そしてこの直後、織田家の跡目と領地の行方を決める清須会議が開かれ、秀吉はいよいよ天下人への階段を上り始めるのです。

各武将の生涯や関連する合戦・事件については、姉妹サイトでもくわしく解説しています。あわせてご覧ください。→ 戦国ヒストリー(姉妹サイト)

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